それでも「ブラック企業」は入らないほうがいい

 城繁幸氏と西田亮介氏の対談が『プレタポルテ』(夜間飛行)に掲載されているのを拝読して、ちょっともやもやした部分があったので簡単に。

 働かないのか? 働けないのか? 城繁幸×西田亮介特別対談(前編)
 働かないのか? 働けないのか? 城繁幸×西田亮介特別対談(後編)

 個人的に「ん?」となったのが、城氏の下記の発言部分。

 だから、反対に採用される側から考えれば、もし仕事を得たいのであれば、「組織に入ってキャリアを積む」ことが何より大事なんです。とにかく20代のうちに会社の中でキャリアを積む。別に有名企業である必要はありません。暴力団や犯罪行為をしている会社は別ですが、今世の中で問題とされている「ブラック企業」でも、私はいいと思いますよ。そもそもブラック企業を取り締まるはずの厚生労働省にしたところで、キャリア官僚は月に200時間残業をしている超ブラック企業です。

 前段で資格取得しても職を得るのに必ずしも寄与するとは限らないという話があり、「コミュニケーションが取れる」ことが採用あるいはその後のキャリア構築にプラスという主張はその通りだろうな、と思うのだけど。西田氏は経済的な理由で運転免許証やPCスキルを得る機会のない無業者の存在を指摘する後に、「キャリア形成のための資格取得」というのは意味合いがだいぶ違っていて、編集の飛躍を感じてしまう。
 「ブラック企業」でもいいから、組織に入って「履歴書を埋める」という方が得策、というのは一見正論に見える。だが、そのようなストレスフルな職場に入り心身の体調を崩して「無業状態」となる例は、工藤啓氏と西田氏の共著『無業社会 働くことができない若者たちの未来』でもさまざまなケースが登場している。

 私自身、体力的な限界を感じて3年弱務めた会社を辞めてから、次の転職先を見つけるまで9ヶ月ほどかかった経験があり、その先でも文字通り馬車馬のような働き方をしてしまい、再度体調を悪化させてしまったことがある。
 一度猛烈に働くのが普通になると、自分も周囲も「できる」と思ってしまい、それができなくなると組織に居づらくなる。まして、なかなか見つからなかった仕事が見つかった際には、自分を認めてもらうために無理をして、再度同じような働き方をしてしまいがちだ。そして、また身体を壊して辞めて……。これを繰り返すうちに疲弊して使い物にならなくなっていく、というのが「ブラック企業」あるいは中小企業・組織を渡り歩かなければならない人間の誰しもに存在するリスクなのではないか、と思う。

 個人的には、この対談で両氏が主張されているような中堅・中小企業の社会的地位の向上や、日本型終身雇用の脱却、「ジョブ型雇用」などの雇用形態の多様化はどれも賛成なのだけど。労務関連の規制が厳格化されることなしに進むと「ブラック企業」はさらに増えるのではないかと思うし、そういった会社・組織の転職を繰り返してついに働くことができなくなる無業者の存在はより顕在化するのでは、と思わざるをえない。
 結局のところ、長時間勤務などの就労条件の改善、もっというならば労働法の罰則化を含めた厳格適用がなされない限りは、この無業化する労働者の問題はついて回るのではないか。工藤・西田両氏の共著ではこのあたりの言及が教育・人材育成と比較して薄い印象があるので、今後議論や認知を深める上で避けられない課題となっていくのではないかと思う次第です。

無業社会 働くことができない若者たちの未来 (朝日新書)
工藤 啓 西田亮介
朝日新聞出版 (2014-06-13)
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イヤな予感しかない「シビック・ジャーナリズム」

 『ハフィントン・ポスト』日本版の松浦茂樹編集長が退任するとのこと。

 ハフィントンポスト日本版編集長を退任致します。ありがとうございました

 当初、「どうなるのかなぁ」というバタバタな感じで、拙ブログでも叩きエントリーを書いたりもしたのだけど(すいません)、月間1300万UUというメディアにまでなったのは、松浦氏の運営に拠るところが大きかったのではないかなぁ、と外野の目には映る。特に、ブロガーのエントリーと、ニューストピックのネットでの反応を合わせた記事、さらに海外の翻訳記事との配分がバランスが取れているし、さらにtwitterやFacebookとの相性がよい動画の紹介記事も、バイラルメディア的な要素を織り交ぜているあたりも好調に推移しているアクセスに貢献している。
 ただ、これがアメリカの『The Huffington Post』からはどう見えていたのか。「ジャーナリズムはどこ?」という感じになっていたのかもしれない。小平市の都道建設をめぐる住民投票を継続して追いかけていたり、これまで何もして来なかったわけではないものの、若干スケールには欠けるし、いかんせん数をこなせる程の体制にない。このあたり本国と日本版でどのような議論がなされているのかは気になるところだ。

 さて、後任の編集長に就任する高橋浩祐氏については、『東洋経済オンライン』でいくつか記事を拝読したことがあるくらいで、失礼ながらどのような方なのかよく存じ上げない。ただ、なんだか松浦氏とは真逆なタイプの人材を持ってきたなぁ、という印象は受ける。
 彼が『はふぽ』にジョインする前に『東洋経済オンライン』に寄稿しているのが「”ブラック”企業と呼称するのは国際感覚に欠けている」という主旨の記事というのは、いろいろ示唆的ではある。

 「ブラック企業」は、人種差別用語である (東洋経済オンライン)

 彼の就任にあたっての、ちょっとタイトルが長いエントリーには、「シビック・ジャーナリズム」という言葉が出てくる。

 「世界最強のネットニュースメディア」ハフポストの力で、草の根的な「シビック・ジャーナリズム」を日本にも

 ハフポスト日本版では、そんな政治家や役人のエリートたちの声に耳を傾けがちなジャーナリズムよりも、市民生活の苦しみや葛藤をすくいあげるシビック・ジャーナリズムを目指したいと思っています。市民レベルの生活に視点を置き、社会の現場の問題点をあぶりだす市民のためのジャーナリズム。(中略)これまでの日本の報道ではあまり目立たなかった草の根レベルの「下」から、権力側への「上」へ、情報を発信し、政治家や行政を下から突き動かすようなジャーナリズムを実践していきたいと思っています。幅広い意味で、これも草の根レベルから、権力を監視するウォッチドッグ機能の一つだと思っています。
 
 「シビック」と言い換えてはいるけれど、「市民ジャーナリズム」というと2006年に『オーマイニュース』日本版の登場を思い出す。
 『オマニ』も「草の根」からの市民自身の発信を目指した媒体だったが、結局のところ瓦解したのは、当時匿名での発信を「無責任」として過度に敵視する一方で、「市民記者」の記事のクオリティーが上がらず、読者に取って有益な情報を発信するに至らなかった故でもある。また、中の人たちが「メディア」もネットユーザー層の多くから「権力」とみなされているのに無頓着だったのも、運営が迷走を重ねた原因に挙げられるのでは、と思う。

 『はふぽ』日本版は『オマニ』の同じ轍を踏むのだろうか。
 まず『はふぽ』の場合、編集部によって寄稿・ブロガーのエントリーに一定のクオリティーが担保されているように見える。『オマニ』のように論理が破綻して読むに耐えない、といった内容ばかりになるとは考えにくい。
 メディアとしての「責任」という部分はどうだろう? 特に実名・匿名での発信を「責任」に結びつけるのは、各メディアがネットで展開するたびにつまずく地雷だったりするのだが、ソーシャルメディアの普及によって多少風向きが変わってもいる。ただ、多くのメディア関係者は未だに「実名で発信すれば一定の質が担保されている」という感覚でいるみたいだしなぁ…。Facebookでどれだけの放言がなされて、それがYahooニュースのコメントとして出てきちゃう現状を、ちゃんと見て欲しいと思うのだけど。また、国でも社会でもブラック企業でも、不満や不信は匿名であるから発信できるものもあるだろう。市民に寄り添うメディアを標榜するならば、ここをどう舵取りするのかがアキレス腱になりかねない。
 そして。個人的に一番「大丈夫なのかなぁ」と感じるのが、「草の根レベルの”下”から、権力側への”上”へ」という感覚。なんというか、オールドファッションというか…。繰り返しになるけれど、メディアも権力と見なされているし、メディアの関係者が政治家や官僚、経営者を「偉い」と思っていないように、多くのひとからは「偉い」と思われていない。”下””上”という意識がフラットになりつつある流れに逆行しているように見えてしまう。

 そんなわけで。どう転ぶかはまだわからないけれど、イヤな予感がするキーワードが新編集長からいくつも出てきている『はふぽ』。日本のトピックを世界に発信していく、というミッションは共感できるので、運営でつまずかないといいね、と今後も生温かく見守っていきたい所存です。

 松浦氏に関していうならば。なんだかんだいっても、彼がLivedoor、コンデナスト、グリーと歩むたびに、ネットの「言論空間」と呼べるものが植え付けられているわけで、もっといえばネットメディアの領域を広げるお仕事をされているといえるだろう。これって素直にスゴいことだし、次に何処へ種を撒きにかかるのか、期待せずに期待したいと思います。

朝日新聞・池上彰氏コラム掲載拒否騒動について思うこと

 ここ数日、大騒動になっていた朝日新聞の池上彰氏コラムの掲載拒否されて、逆に池上氏から連載中止を申し入れた一件。2014年9月4日付の朝刊に無事に掲載され、ネットでも配信されることになった。

 (池上彰の新聞ななめ読み)慰安婦報道検証 訂正、遅きに失したのでは:朝日新聞デジタル

 いちおう日本におけるメディア環境に置いて、ユーザーからの反応が”鉄板”といえるのが中国・韓国批判と新聞・テレビ批判(その是非については置いておく)。その流れに乗らないわけにもいかず、わざわざ早朝に朝刊を買いにいってチェックした記事を配信するというのが本日最初の作業となった。(参照
 それから、雑事をこなして『艦これ』のデイリーまわしてシャワーを浴びて移動して、ちょっとしたインターバルができたので、60分間で個人的な雑感を書いてみようと思う。

 まず、掲載のタイミング。木曜日は『週刊文春』『週刊新潮』の発売日で、朝日にも広告が掲載される(一部黒塗りにされていたけれど)。そのどちらも朝日批判の特集を組んでいて、池上氏コラムの「掲載中止」についても大きくピックアップされていた。
 なので、社内外からの批判の影響があったことが大きかったというのがあったとはいえ、週刊誌対策という側面がより上層部は重視したのではないか、という疑念が拭えない。そういった意味で、元切込隊長氏が「週刊文春の役割は偉大だった」というのに私も同感。

 池上彰さんの朝日新聞連載再掲載の件、週刊文春の役割は偉大だったと思うんだよね(山本 一郎)

 そんな中、朝日の所属記者の方々が、池上氏コラム掲載中止についてtwitterで異を唱えたことにも注目が集まった。

 【池上彰さんコラム掲載拒否】朝日新聞記者アカウントのツイートまとめ (Togetter) 

 これは、朝日が早くから各記者にtwitterアカウントを持つような方針だったこと、ほとんどの記事が記名になっていることも相まって、社内での自浄作用が働いたということは間違いないのではないか、と思う。メディア関係者の声を見ると、そこを評価する向きが強いように感じる。
 とはいえ。結局のところ約4000人の従業員を抱えているわけだし、それぞれの方々が社の方針とは違った考えを持っているというのは、当然でもあり普通。それ以上でも以下でもないのではないだろうか。
 問題は、朝日新聞に限らず各メディアが、これまで個人での発信についても組織の「責任」の所在について追求しつづけてきたことだろう。例えば2013年の復興庁職員のツイートが問題視された時も、個人の発言という断りがあったにも関わらず、その姿勢に対する批判は復興庁全体に及んだ。そういう経緯を踏まえれば、「社」としての問題が「個人」レベルまで落とし込まれて論難されるのも仕方ないんじゃないかな、と思ってしまう(Parsley自身としてはそういう流れは嫌いですが)。
 また、朝日新聞の場合、アルジェリア人質事件の際に遺族の意に反して実名報道を通した一件で、当事者への配慮よりも「報道の自由」の方を重視する、と言い切ってしまっている(参照)。当時、中のひとたちは一様に「実名報道の意義」についてツイートしていたものだった。これに関しては、社内で「ジャーナリズムの意義」について教育されてきたこと通りのセオリーであったとしても、それがスタンダードだと外部に認めさせる説得力には欠いていた。これも、今回の一件に対して各記者への風当たりが強い遠因となっているように思える。
 いろいろ書き連ねたけれど、結局のところ社の方針に異を唱えたからといっても、上層部からの圧力があったとしても労組が守ってくれるだろうし、ご自身が「辞めたい」と希望しない限り、朝日を去ることにはならないだろう。そういった安全な立ち位置から発言しているようにしか見えない、というのが正直な感想になる。まぁ、ご自身が関わっていないことは「他人事」になるのも仕方ないとも思いますが。

 また、中の人たちが「自浄作用」を働かせたことと、今回の掲載拒否から一転掲載されることになった一件については別々の事となるだろう。
 そもそもメディア業界の最強者である池上氏のコラムを連載するということに対して、個人的には「なんだかなぁ」と思うのだけれど、そんな最強者のコラムを「自社批判で載せられません」といえば、他社が食いつくのは火を見るより明らかだ。それでも拒否したというのは、内側を向いた判断がどこかのセクションであったということなのだろう。それに対する批判が渦巻くと掲載…というのは、メディアとしての背骨はどこにあるのかしら、ということになる。なんというか、バイラルメディア、笑えなくない?
 いずれにしても、今回の掲載拒否とそれを覆すまでにどんな議論があって誰が判断をしたのか明らかにすることが最低限必要なことなのではないかしら。
  
 さて。この騒動により、朝日新聞がどれだけのダメージを受けたのか、ということなのだけれど。個人的には、クリティカルな状況-部数が半減するとか-にはならないと思う。もともと朝日嫌いのひとはとっくに離反しているだろうし、これをきっかけに他の新聞に流れるとも考えにくい。今更嫌いな巨人軍を応援する読売に乗り換えますか、みたいな。
 このエントリーでは朝日のことを大企業扱いしているけれど、総資産は連結で5729億になるわけだし、不動産も相当ある以上、ちょっとやそっとで潰れようがないわけで。今回の一件もそよ風程度のことでしかないのでは? ちなみに、新聞社の資産がいかに大きいのかということは、毎日新聞の「WaiWai」炎上事件の時に学びました(参照)。

 海外資本がやってくれば話が変わるかもしれないけれど、日本語メディアにそこまで価値があるのかどうか。つまり、ゆるやかに衰退する方向であるとしても、当分の間は安泰なわけだ。佐々木俊尚氏によれば、2012年には新聞・メディアは「崩壊」していたはずなのになぁ…(これはご本人も”釣り”だったと認めていましたが)。

 Parsleyとしては、そういう「コップの中の戦争」で汲々としている日本のメディア環境には超むかつくし、ネットで活動していく上で面倒くさい事この上ない。とはいえ、個人レベルではレガシーメディアの人材の方が優秀だということも認めざるをえないし。なんというか、悔しいっすね。

 そんなこんなで、取り留めがないままだけれど時間切れに…。お目汚し失礼、ということで!

コンテンツ「パクり」が合法化されたならば

 今日も明日も、いつでもどこでも消耗しています。Parsleyです。

 しばらくは、ネットを見ている時間を取ることさえ難しく、そのような意欲も湧いてこなかった私ですが、そんな中でもイケダハヤト氏のご活躍は仄聞しておりました。というわけで、こんなことしている場合ではないのだけれど、下記のエントリーについて20分で何か書いてみる。

 コンテンツを「パクる」のは、なぜいけないの?教えておじいさん!(随時アップデート中)

 これに対しては、発端となった『ネットの海の渚にて』氏のエントリーにほとんど語り尽くされてしまっている。著作権・もっと広くいうと知的財産権を侵しているわけだし、「やったもん勝ちのやられ損の現状に到底納得出来ない」というのも同感。

 イケダハヤト氏からの疑問に答えましたよ – ネットの海の渚にて

 なので、自分の方では別の視点を考えてみたい。仮にコンテンツを作った人の権利が「既得権」とされ、コピーや配布が自由に認められるようになった社会では、どのようなことが起きるのか。
 まず思いつくのが、出版社やレガシーなメディアによる「パクリ」。ブログなどで無料で公開されているテキストやマンガを、編集者が作者の同意なしに勝手に拾って、勝手に一冊の本にして、勝手に発売する。これが「合法」になるのならば、作者に原稿料を払うような奇特な人は誰もいなくなるだろう。その過程で、元のコンテンツの改変が行われることがあるかもしれない。結果、作者が「書いた」「描いた」ことが伝わらないばかりか、悪意のある表現をしたことにされてしまう可能性も捨てきれない。
 テレビもYouTubeやニコニコ動画から引っ張り放題。クオリティの高い作品もすべて「パクれ」という流れになるだろうし、新聞社もネットで書かれているコラムを勝手に引っ張って並べるようになるのかもしれない。
 現行の新聞・出版・テレビといったメディアはビジネスモデルが確立されており、(以前ほどの力はないとはいえ)時間もお金も人もかけることが出来る。木っ端な発信者からすれば「強い」存在だ。そんな彼らが合法的にUGCからコンテンツを引っ張りだしたとすれば……。

 手間暇かけて書いたテキストやイラスト、動画の価値が一切合切「フリー」になるというのは、すなわち「ゼロ」になる、ということだ。もっというならば「経済」が成立しない。
 そうすると、メディアの中でも「タダ」のものにリソースをかけてコンテンツを作る人間はいなくなるだろう。だってどこからかパクってくればいいのだから。
 そして、ネットでも発信する人は絶無にならないにせよ、良質な情報が激減することは容易に想像がつく。剽窃されるだけならばまだしも、勝手に編集・改変されて自身の意図とは違った表現になる可能性もあるからだ。政治や経営に携わっている人の場合、冗談なしに誰かの生死に関わる事態にもなり得るだろう。なかなか素敵なディストピアですねぇ……。

 そんなこんなで。基本的に法律というものは、国・行政や企業・団体、あるいは地位のある人たちが「暴走」しないため、ひいては弱い立場の個人が不利益を被らないために存在している、というのがParsleyの理解なのだけど。著作権法も同様で、権力がある人・団体の行動を抑えることにより、コンテンツの価値や作った人がかけた分のリソースを守る役割を果たしている。
 イケダ氏が疑問を呈している、著作権者ではない第三者が「パクリ」が許せない理由をあえて忖度するならば、それが許容されると上記のようなモラルハザードが生じることが想像に難くないからだろう。自身が発信した何かが、いつ・どこで・誰に使われるか分かったものではない社会におぞましさを感じない人たちの無邪気さ、もっと踏み込むと想像力のなさに怒りを覚えるのではないか。

 そんなこんなで。時間切れなので作業に戻ります。
 …えっ、「そういうお前のパクリへのスタンスはどうなんだ」って? このブログでもクリエイティブ・コモンズ「表示 – 継承 2.1 日本」と表明していますから。

メディアの多様性とメディア人の挟持

 超ご無沙汰になってしまいましたが、皆様お元気でしょうか。Parsleyですが、何とか生きながらえています。

 このブログを含めて、半年近くも更新できないという体たらくについて言い訳すると、公私にわたって立ち位置が微妙に変化したこともあって、目まぐるしさに拍車がかかったということもあるけれど、何よりも世の中の事象に対して不感症になっていた。社会の歯車はそれなりに回っているように見えるが、何となくそこに自分の居場所はない気がする。そこで自分が書くべきことはないし、このままフェイドアウトしても誰も気づかない。そんな感じでもいいかもしれないな、とぼんやりと過ごしていた。

 とはいえ、自分に居場所がなかったとしても、そのことで自我が消せるわけでもないし、「なんだかなぁ」と思っている自分も消せない。そんなこんなで、こんなことしている場合ではないとは分かっていながら、久しぶりにログインして書いている次第。

 ちょっと前に、『メディア・パブ』の田中善一郎氏の記事が話題になっていた。

 多様性が失われるソーシャルメディア、「沈黙のスパイラル」へ

 ここで紹介されている、ソーシャルメディアで議論をしたいという人が40%に過ぎない、というのは自分自身も「黙って」しまっていたこともあり、ひとのことはまったくいえないのだけど。家族・友人・同僚といった相手のパーソナリティーを把握した状態とは違って、前提となる知識も共有される保証がどこにもないネット上での議論は不毛、という感覚を多くのユーザーが暗黙知として理解しているのではないか、と思う。とにかく疲れるし面倒くさいもん。
 一方で問題なのは、ソーシャルメディアにおけるRTや「いいね」を、メディアの側が「支持」「人気」と無条件に見なして、その輪を広げようとするところだろう。それが、サイレント・マイノリティーをさらに沈黙に追いやる役割を間接的とはいえ果たしていることも、「多様性」を奪っているのでは、と思わざるをえない。

 個人的に感じるのは、「バズ」というフィルターの外においては、ブログでも『Twitter』でも『Facebook』でもその他のサービスでもさまざまな事象が発信されていてカオス度は増しており、Google先生ですらそれを網羅しきれていないということ。情報の発信は多様になっているのに、人々の「意見」から多様性が見られなくなっているというのは、どういうことなのか。この非対称な状況は、アーキテクチャーとしてもメディア空間としても「なんだかなぁ」と思ったりする。
 
 日本のメディアに限ると、新聞・出版社系のメディアがネット発信を重視するようになって久しい。芸能人の情報のソースがブログや『Twitter』というのも珍しくなくなった。そして、「ネットでの話題」という記事がテレビで紹介されて、さらに「バズ」が加速する…という構造ができつつある。
 各メディアが同じ話題の事象を追って、同じような内容の情報を発信すると、「早さ」が最大最強の物差しとなっていき、精査や考察ができるのはメディアに「体力」があるか、既得な人間がいるのかどちらかになってしまう。結果として、人的なリソースをかけることのできるレガシーなメディアが強くなっていっているよなぁ、と思わざるをえない。真面目な話、新聞の人が本気でネットの情報を拾いだしてしまうと、ネットメディアとしては敵わないですよ、ほんとうに。

 そうなると、ネットメディアがリソースをかけずに運営していくためには、彼らを上回る早さでソーシャルメディアで反応のある(あるいは見込めそうな)ネタを探してアウトプットしていくしかない。最近のバイラルメディアが乱立している要因の一つに挙げられるだろう。まぁ、これもレガシーメディア側から参入しだして、もっとおかしなことになりそうだけど。新聞社も高読者数が減っていて基盤が揺らいでいて余裕なんかないわけだし、水は低きに流れるのは自然だろう。

 結果、多様な情報をさばく役割をどのメディアも充分に果たし得ないし、それをやろうとするとゲームに勝てない。これもネットにおける「多様な発信」が可視化されない理由だと考えている。
 考えるだけではアレなので、個人的にもこっそりとニッチな情報を流そうと努めてきた。きたのだけど、これが本当に骨が折れる。あまり人から褒められることもないし、骨だけでなく心もぽっきり折れることもある。それでも「続けなきゃ」と思えるのは、新聞・雑誌の方々も「ニュース」を広げるために苦闘し続けてこられたことが「多様性」を担保してきたことを知っているつもりだからだ。

 ここのところ、バイラルメディアに対する憎悪が高まっているように感じるが、とどのつまりメディアとしてのポリシーがなく、ユーザーに対してその情報を伝えることでどのような貢献があるのか不明だからなのでは。もっと踏み込むと、メディア人としての挟持に欠いている連中ばかりだぜ、と思っている。

 …と、ここまでで時間切れ。バイラルメディア関連については次の機会に!
  
 (ブログの書き方、忘れてなかった。良かった~…)