Web編集に求められるアプローチ

 Parsleyもたびたびお世話になっている『DrillSpin』に、興味深いコラムが掲載されて、個人的にずっと考えていることともリンクしているので簡単にメモしてみたい。

 第74回:紙の編集という呪縛 ~紙のウェブ化ではない新しいかたちとは?~ DrillSpin Column(ドリルスピン・コラム)

 いちおうParsleyも乏しいながらも紙・Web双方に関わった経験があるわけだけど、この話はその良し悪しというものはなくて、「伝える」という目的を果たすために限られたリソースをどのように割くのか、という技術論に過ぎなかったりする。雑誌のビジネスモデルが崩れているというけれど、数千から1万程度の発行部数の媒体がウェブにそのまま移行して生き延びれるかといえば無理だと思うし。だから、その媒体の記事や各編集者のセンスが時代にそぐわなくなっているという面の方が大きいんじゃないかな。

 とはいえ、紙媒体とWeb媒体では、読み手との「距離感」の違いがある。
 紙の場合は、コンテンツの質を高めることができれば必然と読者からの評価も得られるという考え方で作られていることが多い。一方で、Webはアップした瞬間にアクセス数が見えるし、読者からのコメントなどが寄せられるため、そういった反応も念頭に置いた発信をしていく必要がある。読む側からしてみれば、感想もあわせて一つの記事を見ているという体験をしていることになるので。
 極論すると、これはコミュニケーションのアプローチの違いということになるのではないだろうか。例えば一つのアーティストを紹介するとして、「どう?この曲すごいでしょ!」というのと、「この曲はこのような理由で素敵だと思うのですが、皆様はどう思われますか?」というのでは、それぞれ最適のアプローチがある。どちらかといえば前者は紙で後者はWebが親和性あり、逆にしてみるとミスマッチングが起こる可能性が高いように思う。
 とどのつまり、「すごいでしょ!」という問いかけをする際は「すごいね!」という反応を期待しているわけで、「すごいね!」と言ってもらえるような作り込みをしていく、というのが従来型のメディアで「良い」とされているコンテンツのアプローチ。それをそのままWebに持ち込んだ際には、「すごい」以外の反応にどのように対処するのか、という課題が突きつけられる。

 だらだら記してしまったけれど。例えば写真のグラビアやイラストなどグラフィカルに見せたい際には現状は紙の方が向いているし、単発のレビューならば動画やECサイトへのリンクを絡めることができるWebの方は手軽ということになったりもするので、コンテンツごとに最適なツールを使っていく、ということが今後ますます求められていくことになるのだろう。
 もっというと、紙とWebを組み合わせて一つのブランドとして「メディア」を作っていくというのが理想なのでは。相当難しそうだけれど、Parsley個人としてもチャレンジしてみたいと思っています。

 

ブログが窮地を救うこともある #ブロガーサミット

 アジャイルメディア・ネットワーク(AMN)の『ブロガーサミット2013』、ちょっとスケジュール的に時間取れるかどうか微妙になってきた…。とりあえず登壇者はスゴい面々で来場者も豪華になりそうなので、人脈を作りたいという方やビジネスのヒントを得たいという方は参加されるといいことがあるかもね、とは思います。

 その『ブロガーサミット』にあわせて、「ブログを続けてきて良かったと思う出来事」というお題を募集されているということなので、現実逃避気味に書いてみようと思う。

 【ブロガーサミット2013】 あなたがブログを続けてきて良かったと思った出来事を、ブログに書いて教えて下さい。 アジャイルメディア・ネットワーク株式会社 Fans Fans

 このブログ『Parsleyの「添え物は添え物らしく」』は2004年10月に何となくはじめた。特に何か書きたいことがあったということでもなく、当時なかば休眠状態だったホームページよりも更新がラクそうだし、これなら続けられるかも、という漠然とした理由だったように覚えている。
 最初のエントリーは、自分の血液型がB型なのにあまりそうは見られない、といった内容で、いま振り返ると「知らんがな」というものだった。その頃、アダルト系出版社に勤めはじめたばかりで、その時に感じた備忘録や、読んだ本、観た映画の感想を誰に見せるつもりでもなく書き連ねていく、という記事を重ねていた。当然ながら、アクセスはフタ桁にいけば読まれているほうで、別にそれでも充分だった。
 ちょっと様相が違ってきたのは、ニュースに関する感想を頻繁にエントリーにするようになってから。コメント欄やトラックバックがつくようになり、自分の中で「読まれている」ということに対して、少し意識をするようになった。
 そうこうするうちに、自分のような底辺をさまよっている人間からしてみれば雲の上と思えるような方からとも、ブログを通じてコミュニケーションが取れるようになった。嬉しくなかったといえば嘘になる。自分について認められたような気持ちになったのも事実だ。
 ブログが縁でオフ会のお誘いを受けたりするようにもなり、雲の上だと思っていた方々と実際にお会いし、知遇を得る機会にも恵まれた。一方で、ネットでの騒動に首を突っ込んだり、巻き込まれたりして、神経がささくれ立つこともあったけれども、その大半はやがてオフでの宴席の笑い話となった。
 そうこうするうちに、しがない零細ブログの書き手にすぎないParsleyのところにも、物書きのお仕事の依頼を頂けるようになった。10代の頃に夢見ていて半ば諦めていたことが現実となった。ブログを書いていなければ舞い込んでくることもなかったのだから、これだけでも自分にとってははじめた意味があった、ということになる。まぁ、物書き仕事が出来るようになったことでその後さまざまな勘違いをして、いろいろな壁にぶち当たることにもなるのだけれど、それに触れるのは別の機会にしておく。
 このエントリーでは「ブログのメリット」について、「もの書き仕事ができるようになる」ということを書きたいのではない。Parsleyの場合、むしろ冷静に見ればブログで人生の方向性を誤った、という見方も出来るように思う。もしかしてブログをやっていなかった場合、変な高望みをせずに済んだのかもしれない。あくまで可能性としてだけれどね。

 2010年2月、当時勤めていた広告企画会社を解雇になった。その年は喘息がひどく、欠勤しがちだったから仕方ないといえば仕方なかった。とりあえず、その際にツイートしてエントリーをアップした。
 それからすぐ、ブログやmixi、twitterなどで繋がっていたいろいろ方々からさまざまな反応を頂いた。慰めの言葉だったり、「飲みに行こう」というお誘いだったり。これらもありがたかったのだけれど、お仕事の話も持ちかけてくれた方もたくさんいらっしゃった。その後、転職活動はなかなか結びつくことがなく、心身とも疲弊することになるのだけれど、あの時にお声がけしてくれたことは忘れることができない。
 しばらく底なしの状況だったParsleyがなんとか生きてこれたのは、ネットを通じて知り合った方々から、毎回手を差し伸べてもらったから。それも、すべてブログを細々とながら続けてきたおかげでもある。もしそれがなかったならば、ひとりで悩んで完全に詰んでいたことだろう。

 学校や会社など、一つの組織にどっぷりと染まって、別の価値観を見ることがないと、はしごを外されてしまった時に何をものさしにしていいか分からなくなる。ネットで発信して反応をもらうと、自分の居場所とは違ったルールで動いているひとの考え方を知ることができる。時にぶつかり合うこともあり、消耗することも多いけれど、そういった「相違」を体感できることは、Parsleyの場合は実生活でも非常に役立った。だからこそ、まったく違った業界に飛び込んでもある程度順応することができたわけだし。

 もっとぶっちゃけると。一つの組織やクラスタに寄りかかることは、それが崩れた時に自分も共倒れになってしまう可能性が高く、超リスキーだ。別にリアル/ネットに限らず、学校・会社⇔家族との間以外の、複数のコミュニティーに出入りしておくのは、リスク回避という面からも必要だと思う。
 所属している組織やクラスタとは別の足場を作るのに、ブログやソーシャルメディアは大きな役割を果たすと思う。もし、現状に閉塞感を覚えているひとは、息抜き目的でもネットでの発信をした方がいいはず。

 まあ、Hagex氏がおっしゃるように、ブログを書くことによって様々な災いを招くことも多々あるわけだけど。(参照
 道具を使うはずが使われるという状態になるのは、別にネットに限ったことではないし。アクセス数やツイート数・いいね数などをあまり気にしないか、ゲーム感覚で割り切るか、しばらく書いているうちにその按配が分かるようになる。実のところ、それって経験していないと身につかないスキルだったりするんだよね。

 ずいぶんと書き散らしてしまったけれど。ブログを書いていると、自分が窮地に陥った際に誰かから助けてもらえることがあるかもね、という話でした。あるいは、ブログは自分がどん底になった時のために書く、という考え方もあるかもしれない。
 少なくとも、Parsleyの場合はこの木っ端ブログを書き続けることで、いろいろな方に出会えて、様々な経験を積むことが出来たことが財産となっているわけで。どんなブログにも、自身の状況を変える力は確実に秘めているはずですよ、と前向きな煽り文句で、このエントリーを締めたいと思います。

 為せば成るとは限らないけれど、為さねば確実に成らないよ☆
 

正規雇用を求めるのって超自然ですよね

 酷暑が続いている中でいろいろ忙殺されていて、ちょっとしたことにいらいらしがちなParsleyなのだけれども、たまたまtiwtterのタイムラインで流れた記事とその反応に「イラッ☆」としたのでメモしておく。

 大卒で非正規「正社員になり自立したい」:日本経済新聞

 派遣労働や非正規雇用で従事しているひとにしても正規雇用になりたいと思うのは当然だし、大学や専門学校を卒業して就職できなかったひとにしても、多くは「働いたら負け」だと思っているわけじゃない。というか、5年後10年後を考えたライフプランを構築するには、まず「正規雇用者として働く」というスタートラインに立たないと現実的でないし。
 また、何らかの持病を抱えているひとならば、国民保険よりも負担が軽い社会保険に入っているほうが絶対にいいだろうし、年金その他の手続きの煩雑さを変わってもらえるという面など、インフラが整っている会社にいた方がより生きやすい。
 つまり、誰もが正規雇用者を目指すのは超自然なこと。それを淡々と現状を紹介している記事の姿勢は個人的には嫌いじゃない。
 では、なぜ「イラッ☆」としたかというと、この記事をツイートなさっていた本田由紀先生の反応。 

 こうして「正社員が良い」「とにかく正社員に」「非正社員はだめ」という二項対立的な考え方と現実が維持され強化され続ける。

 https://twitter.com/hahaguma/status/365119115079327744
 

 おそらく、本田先生は正社員至上主義をメデイアが助長しているということを指摘されたいのだろうけれど。
 今まさに派遣社員やアルバイト、フリーランスで働くことが「だめ」なのは、別に社会的な空気という漠然としたイメージではなく、前出のような社会保障や将来的なキャリアプランを描くことが難しいというリアルな問題を各々が抱えざるを得ないため。
 となると、例えば社保と国保を一元化して負担額・割合を一律にするという考え方が出てくるけれど、それだと正規雇用者からすれば「改悪」だし、一方で収入の少ない非正規雇用者が払うには高すぎて、結局運用できなくなるという懸念もでてくるのだろう。Parsleyとしてはそれでも一元化すべきだと考えるけれど、それが本当にコンセンサスを得れるかといえば、微妙ですよね、としかいいようがないなぁ…。
 要するに、「二項対立的な考え方」を解消するには、非正規雇用者に対する保証を向上させるか、正規雇用者が享受している「特権」を見直すのかという選択になり、そもそもその選択をすることを望まないひとが多数派だよね、というのが現実なのだろう。

 個人的には、本田先生に限らず社会学者の多くが、リアルで壁にぶつかって働いているひとたちの「状況」についての忖度に欠いているような印象をもっている。実際、先のツイートにも、非正規雇用者から「現状が楽しいから幸せです!」みたいな発言ばかりがメディアを踊っているほうがいいんですか、と脊髄反射したくなるし。

 なんだか何を書きたいのか分からなくなってきたけれど。とりあえず自分の能力に絶対の自信がないのであれば、あらゆる努力をして正規雇用を目指した方が無難だよ、社会保障制度が抜本的に見直されない限りはね、というお話でした。でないと、30代で路頭に迷って40代で野垂れ死にするよ。これマジ。

『ROLa』についてもう少し語っておこうか

 新潮社が新しく出したカルチャー誌『ROLa』は、いちおう女性向きとされつつも、性別に関わらず読んでおきたいと気にさせられる特集や連載が目白押しで、雑誌好きならば楽しめる内容となっていた。というか、もしかして日本で刊行される最後の雑誌らしい雑誌になるのかもしれない、とさえ思う。
 見どころは、『オタ女』に駆け足でまとめたので、そちらをご覧頂くとして。ここではもう少しParsleyが個人的に感じたことをつらつらと記していきたい。

 蒼井優がハワイでサーフィン!アイドル特集も充実している新潮社の新カルチャー誌『ROLa』のチェックポイント – オタ女
 
 『ROLa』の編集で一番特徴的なのは、カメラマンへのリスペクトがあること。蒼井優の表紙やハワイグラビアを担当している高橋ヨーコ女史をはじめ、篠山紀信氏や青山裕企氏、ホンマタカシ氏、新田桂一氏、岡本健一氏の写真は、どれも「画像」とは別の「情報」以上の付加が込められていて唸らされる。とりわけ、米原康正氏がでんぱ組.incのチェキを撮影しているページは、2013年を切り取った記録として機能することになるのではないかと思う。

 とはいえParsley的にはこの雑誌がスールしている二点ほどのことが気になっている。
 まずは、絵画やイラストレーションといったアートについては全く触れていないこと。特集や連載はおろか、カルチャー関連のレビューも舞台・書籍・映画のページはあるのにない。いや、「Art」もあるにはあるのだが、瀧本幹也氏のピックアップされているので、ここも「Photo」枠なのだ。
 現在の20代は、最初からPCでお絵かきソフトを使っていた世代で、PhotoshopやIllustratorを駆使して作品を描くという絵師が質量とも増えている。これはpixivをはじめとするSNSという投稿・発表の場があるのが大きいし、最近ではtumblrを積極的に活用して、作品のユーザーとのシェアを試みるアーティストも増えてきた。
 いずれにしても、分厚い写真への陣容に比べて、このような進行形のカルチャーについては関心ないのかな、といった印象は覚える。

 同じように、ニコニコ動画を中心としたボーカロイド作品群や「やってみた」カルチャーもほぼ言及なしを通している。アイドルの多くはniconicoと親和性高いし、ファン層の多くとも被っていることは明白なのに避けているというあたり、編集の意志を感じるのは自分だけだろうか。アーティスト/クリエイターとファン/ユーザーとの間には「超えられない壁」が存在している、ということが裏テーマなのではないか、とさえ感じる。
 こういった姿勢はものすごくコンサバではあるけれど、「参加型」という言葉が踊りがちな今のコンテンツ業界においては逆に新鮮で潔い。明確なコンセプトを提示できるというのが雑誌のよさであり、役割だとも思うし。ParsleyとしてはアートにもCGMにも愛があるつもりなので、一切スルーされていると心穏やかでいられないけれどね。

 いずれにしても、個人的には期待以上の内容で、やっぱり自分は雑誌が好きなんだと実感できました。できればこれから長く続いて欲しいなぁ。
 

「ナチス」の世代感覚についての二、三の事柄

 麻生太郎副総理が講演で「ナチスの手口を真似すればどうか」という発言が大騒ぎになった件、結局は該当部分を「誤解を招く結果となった」として撤回するということになったようだけれど。マスメディアとしてはまだまだ引っ張りたいような印象でもあるので、てきとうにメモしておく。

 騒動になったことに関しては、例えば毎日新聞の記事がYahooトピックスにもなっており、国際的な問題にまで発展していると報じられている。

 麻生副総理 ナチス発言、官邸火消しも後手…政権に痛手- 毎日jp(毎日新聞)

 一方で、朝日新聞デジタルには、シンポジウムでの該当部分の抜き書きが掲載された。

 朝日新聞デジタル:麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細 – 政治

 これを読むと、「憲法改正を論じる際は冷静にやろうや」というのが本旨であり、ワイマール憲法からナチス政権が生まれ、国民の支持のもと憲法が死文化していったという歴史的事実の指摘と読める。少なくとも、当初の報道はかなり恣意的に切り抜きしていた、といえるのではないだろうか。
 というか、麻生副総理のいう「わーわー騒がないで」というのは、明らかにメディアに向けられたものと読めるので、問題視されている事態がまさに現出しているというあたり、なんだか悲喜劇的でもある。
 まぁ、麻生氏はもともと失言癖があり敵の多いひとではあるので、報道や海外の反応も想定内だし、撤回というけじめもついているし、これ以上騒ぐ必要性を個人的にはそれほど感じない。

 とはいえ、この「感じない」という感覚も、「国際感覚に鈍い」という謗りを一部では受けることになるのかもしれない。そこに、この件の隠れた深い断層がある。

 例えば、2004年に公開された『ヒトラー ~最期の12日間~』は、いくぶんの脚色がありつつも女性秘書の証言に基づいて作られた「歴史」映画だが、ブルーノ・ガンツら出演俳優の名演もあり、登場人物のキャラが愛されるべき存在と捉えるファンも少なくない。
 日本でも、「総統閣下シリーズ」と称される嘘字幕動画がYouTubeやニコニコ動画に数多くアップされており、「ちくしょうめ!」といった空耳を織り交ぜてネタコンテンツの一つになっている。
 いちおう付け加えておくと、総統嘘字幕が最初にYouTubeに登場したのはスペイン語で、その後もパロディ作品の投稿が絶えずに続いていることから、日本が特別に「国際意識」が低いということにはならないように思う。
 むしろ、第二次世界大戦から半世紀以上が経過し、忌むべき記憶というよりも、教科書上の歴史という感覚のひとが増えることは国籍に関わらず自然なことといえるかもしれない。どんなに教育したとしても学校からオミットされる生徒もいるしね。

 要するに、「ナチス」という言葉を出すことがタブー視していることについて、違和感があるという世代が増えているいうこと。映画を観て「親衛隊の軍服かっこいい!」とか「ゲッベルス萌え」というひとがいて、「不謹慎だ!」と怒る人も多いだろう。けれど、ユダヤ人の虐殺行為について、例えば織田信長の一向一揆殲滅といった歴史上の出来事と比較してそれだけなぜ特別に扱われるのか、ちゃんと説明することが出来ているのかどうか。

 となると、今回の麻生副総理の発言についても、「何が悪いのか理解できない」というひともいるだろう。多くの記事は、ナチスについて触れて非難が集まり、発言を撤回したというプロセスだけで、歴史や文脈については触れていないから、なおさら分からないということになるのかもしれない。
 これを不勉強を誹るのは簡単。だけど、そういった世代間のギャップが(日本に限らず)生まれてきているということにリベラル勢力はもっと敏感になった方がいいように思うのだけど、まぁ無理でしょうね。

  

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