広報・PR担当者にお願いしたい二、三の事柄

 ここのところ、複数の広報・PRのひとから、「こんなイベント誘われた」という話を聞いた。なんでも、『Business Media 誠』の吉岡綾乃編集長が某PR会社とのやりとりでのトラブったことが開催のモチベーションになったとか。

 本気と書いてマジと読む、広報セミナーをやります。3月27日。 (誠編集長ヨシオカが日々考えていること)

 複数の案件で立て込んでいるのと、手元不如意でなければお邪魔してみたかったなー。

 PR会社の中のひとたちの中には、Parsleyも言いたいことが山ほどある。例えば、掲載についてしつこく問い合わせをしてくる場合。ただでさえ執筆と画像加工と取材とアポ取りと企画練りと事務手続きで追われているわけで、率直にいってウザいっす。あなたから私や掲載先のメディアに対して一銭も落としてないにも関わらず、「掲載して下さい」というだけでメリットを示せていないじゃん、とはっきり言わないと理解してもらえないのかしら?
 まあ、確実にその媒体に露出したいということならば、前にもエントリーにしたように(参照)、予算つけて記事広告にしてください、という話になる。それならば商品の魅力がユーザーに届くために必要になってくる内容の切り口や素材を相談するリソースもちゃんと割けるから、結果的にプレスリリースをちょっと変えました、という記事よりは実のあるコンテンツに仕上がるし効果も見込めます。

 これも前に触れたけれど、ただ闇雲にリリースを撒くのではなく、ピンポイントで対象となるものを出しているライターや記者を見つけるのが、メディアへの掲載への一番の近道。書き手にも得手不得手やジャンルへの情報・知識に差があるから、なるべく対象についてのコンテキストを理解してもらえるようなひとに書いてもらうほうが望ましい。けれど、ここを押さえている広報・PRのひとってほんとうに少数なように感じるなー。

 概略というか愚痴はこれくらいにして。
 Parsleyがいろいろなメディアで記事を出すにあたり、ピックアップしやすいというプレスリリースは確かに存在していて、それは下記を満たしている。

 1.画像素材が複数用意されており、どれも解像度が高いこと
 2.対象となるものに関わっている人の名前が明示されていること
 3.対象のコンセプトやリリースのプロセスがまとめられていること

 まず1から。はっきり申し上げると、Webメディアに関する限り、テキストの10000倍くらい画像のデキが重要です。中には、リリースに付いていた画像が小さくて取り上げるのを断念するケースもあるので、せめて横640px程度で解像度72pxのものがマスト。紙媒体での掲載も考慮に入れるならば350pxは必要になる。
 それから、競合するメディアのことを考慮すると他とは違ったものを掲載する方が望ましいので、複数の中から選択できるようにするべき。その際も同じものをいろいろな角度から写すといったものではなく、全く別個のイメージでないと意味がない。

 次に2。記事を書く側からすれば切り口はいくらでも欲しいから、例えば商品の開発者やプロジェクトリーダー・プロデューサーなどの名前が出ている上にプロフィールがあると、「この人は過去に○○も手がけていて」といった内容も盛り込める。読む側からしても関心につながるフックとして働く。というわけで、同じようなプレスリリースで、名前が出ている場合とない場合とならば、前者を優先します。

 そして3。よく「長いプレスリリースは読まれない」と言われるけれど、何も書かれていないのも困るわけです。
 取り上げるにしても対象に対してそのコンセプトが分からないまま書くのは難しいから、サイトがある場合はざざっと見るわけで、これって実は二度手間だったりする。だから、400~800字程度で本文にまとめられていると理解が早くて書きやすい。
 あと、ストーリーがあるとユーザーにとってもバリューのある情報になるので、対象が「いま」「どうして」「どのように」リリースされるのか、経緯がちゃんとあってはじめて「ネタ」として機能します。こちらも800字くらいで記載されていると、どこをピックアップすればいいのか判断が早くできるのでありがたいかな。

 つい先程、使用済みの電子部品を加工してアクセサリーにしているブランド『さのもの』を取り上げさせて頂いた。

 基板やLEDがキュートに変身!電子部品アクセサリー『さのもの』でギークのハートを狙い撃ち!? – オタ女

 『さのもの』を立ち上げた石田幸子女史が用意しているプレスキットでは上記3点をすべて満たしている。
 画像はzipでダウンロードできるようになっていてたくさん詰め合わされているし、コンセプトやアイディアのきっかけについても端的に触れている。記事で取り上げるための最低限のものが揃っているので、書く側に対してのやさしさが満ちているんですよ。広報・PR担当の方だけでなく、個人で何らかのプロダクトをはじめたいという方も是非まねして欲しいなぁ。これだけ用意してもらえれば、少なくとも私は大企業とか個人とか関係なく、媒体のカラーに合った形で取り上げられないか知恵を絞ることができますよ。

 そんなこんなで。「記事の掲載まだですか?」みたいな催促する余裕があるくらいならば、リリース素材用意して下さいという話でした。
 
 

『mixi ハロー!』とウェブサービスの興亡

 さすがにこれはもうだめかもわからんね。

 mixi、気軽なあいさつコミュニケーション機能「mixi ハロー!」提供開始 « 株式会社ミクシィ

 mixiの課題の一つとして、失われたユーザー間のコミュニケーションの総量を増やすことが挙げられるし、そこをアプローチしたというのは分かるのだけど。そもそもあらかじめ用意されているものが6つだけというはあまりにも少なすぎる上に、言葉+顔文字と吹出しという組み合わせでは使える場面が限定される。まさかマンガっぽいデザインならばウケるという発想じゃないよね?
 LINEのスタンプの場合、そのデザインが「カワイイ」とか「カッコいい」とか「ヘン」とかいう理由で、友だちもしくは不特定多数に送るという場面も多い。そこには送り手の感情の有無に関わらずコミュニケーションが成り立っているということがポイントなのだけど、少なくとも『mixi ハロー!』の中のひとはそのように考えなかったみたいだなぁ。
 特定のマイミクひとりに送り先が決められてしまうというのも使いづらい。白い使い方がユーザー間で共有できない以上、「ハロー」からはじまるやりとりが弾んでいく道を自ら絶っている。
 まあ、簡単にいうと、コミュニケーションサービスを運営する会社がリリースするサービスとはにわかに信じがたいデキといえるのではないでしょうか。
 
 それはそれとして。最近つくづく思うのは、編集長のキャラクターに良くも悪くも影響される雑誌と同じくウェブサービスもまた創業者・開発者の感覚によって興隆もするし衰えもするということ。
 少し前に、北米の10代がFacebookよりもInstagramなどの画像共有サービスの方により世代的なアイデンティティを持っている、といった内容の記事が話題になった。

 Facebookに魅力を感じない若者たち–その理由を探る – CNET Japan

 よく知られているようにFacebookはハーバード大学の学生の交流サイトからはじまっており、利用者が学生から社会の各方面に出るようになってからもその紐帯を保つのに相当な役割を果たしたし、今も果たしている。しかし、結果としてマーク・ザッカーバーグ氏の感性から超えるものがリリースされている形跡はないし、その感覚は彼と世代的に近い層から離れるほど共感度が下がるのではないだろうか。
 SNSでは人間関係が固定されているのが外側から見えるので、これから人脈を築いていこうという優秀な学生からしてみれば、その輪に入るコストを払うくらいなら自分達で面白いことをはじめようぜ、という発想に流れるだろう。そうして、古いSNSであるFacebookがそのユーザーを抱えながらゆっくりと退潮傾向に入り、その間隙を新しいサービスが突いていくという流れになる可能性が高いように感じる。

 mixiの場合もっと顕著。もともと笠原健治氏は IT系求人サイトの『Find Job!』の運営からスタートしていることもあり、「就職活動をする時の情報交換をするコミュニティ」という明確な思想のもと、mixiを立ち上げたという経緯がある。だから、2004年頃には20歳前後のユーザーにとって欲しい簡単には手に入らないナマの情報がそこにはあったし、招待制だったこともあり知り合いの知り合いという繋がりで人脈を広げるのにも役立った。
 しかし、時間が経過するにつれコミュニティやユーザー層が滞留し、世代間を超えたコミュニケーションがうまく成立する動きにはならなかった。もっというならば、採用する側からされる側になったかつての学生たちが、現在進行形で学生のひと達との交流する場を作れなかった。それで結局、mixiのおじさんおばさん化が進行し、さらにはユーザーの就職・結婚・出産などの環境変化に対応することも出来ず、過疎化してしまったということなのではないか。

 Facebookもmixiも、コンテンツは勝手に投稿されたものでつくり上げる、という設計思想でいるから、ユーザー間のコミュニケーションがなくなるとコンテンツもなくなる。ということは、新しいユーザーが恒常的に必要となるのだけれど、そこに有用あるいは魅力的なコンテンツがないと若い層は入ってこない。そういったジレンマから解消されるには、世代に影響されないコンテンツでくし刺しにするというのが最も有効なのでは、と愚考するのだけど。基本的に創業者の世代感覚から逃れることは難しいんじゃないかなぁ…。

『saveMLAK』の「本を送りません宣言」で考えたこと

 東日本大震災で被災した博物館・美術館・図書館・文書館・公民館を支援する有志サイト『saveMLAK』が、支援物資として本を送る行為に対して疑義を掲載しているのを目にしたので、ざざっとメモしておく。

 本を送りません宣言 – saveMLAK

 災害等の非常時に、支援物資として被災地に「本」を送る活動が広く行われています。2011年3月11日に発生した東日本大震災においても、同様の行為が広く見受けられます。様々な方々の善意の現われと言えるでしょう。
 しかし、私たちはここでいったん歩みを止めて、考えてみたいと思います。被災地や被災者に「本を送る」という行為は、支援活動として本当に妥当なものでしょうか。訪ね歩いた被災地の多くで、対処に困る状態になっている数々の本を目にしてきました。支援者の善意に感謝しつつも、困惑する被災者の姿も目にします。支援したいという一人ひとりの気持ちを大事にしつつも、私たちはこう宣言したいと思います。「被災地に本は送りません」と。

 この第一版が出たのは一年前。これが再度浮上してくるということは、未だに同様の行為が後を絶たないのかもしれない。
 おそらく、書籍を寄贈するということは「被災前と同様な文化的な生活が送れるように」という善意がもとになっていると推察するけれど、現実問題として仮設住宅住まいを余儀なくされている方々にとっては、本棚を置くスペースを作る余裕がないだろうし、転居をする際の荷物を増やすことになるかもしれない。そういった慮りが被災者に対しては不可欠だということを宣言では強調している。
 そして、「本をプレゼントする時、古本ではなく新刊を送る」というのは忘れがちではあるけれど、重要な指摘。つまり、古本を送るというのは、自宅では読まないけれどもしかして役に立つかもしれないから、という理由で「処分」しているのも同然だということになるだろう。宣言でも指摘されているように、衛生状態に不安が残る場所では感染症の元となる可能性も残る。さらには、被災地での書店の営業を阻害してしまうことを懸念している。

 震災に限らず、多大な迷惑を被っていても、相手が善意で為しているということが分かっているとそれを断ることは難しい。とはいえ、それが迷惑だとはっきりと言われないと分からないひとも大勢いる。
 だからこそ、実際に被災地の支援に尽力している岡本真氏のような発信力の強い方がこのような呼びかけをする意義があるし、今回の震災だけでなく、寄付をするという行為そのものを個々が見つめなおすきっかけになるといいなぁ、と思った次第。

 しかし、『それでも「本を送る」際の目安10ヶ条』の中に、「送った本のその後を詮索しないようにしましょう」という項目があるのにはため息をつきたくなるなぁ。また、この宣言では「集めて売ることまでに留めるよう強く望みます」とも明記している。現地は今、モノよりも自由に使える資金で生活を立て直すフェイズだということを、外野の人間は肝に銘じるべきだろう。

「法的な対応」というチキンレース

 別にネットだけに限らず数十年も浮世にいれば、誹謗中傷されることもあるし、「告訴しますよ!」という言葉を投げつけられることもある。Parsleyの乏しい会社員経験の中でも、クレーム対応で法的手段を散らかされることは幾度もあったし、影響力の大してない吹けば飛ぶようなブログに対しても、年に数回程度はちらつかされたりしている。

 まあ、こういった対応が面倒くさいことこの上ないから、文句言われたので削除しましたてへぺろ(・ω<)…というのは、大手のメディアやポータル・サイトも案件によっては採用するし、間違っているとは言いがたい。とはいえ、一度そのような要求に応じると、「理不尽な要求でも折れるんだな」と周囲に知れてしまうという弊害もあったりするから、折ることが出来ない一線を決めて、できればポリシーとして明文化しておくのがベターだろう。  こんなことを考えたのは、上杉隆氏が自身の講演会の内容を公開したブログに対して記事の削除を求めたというのを耳にしたから。  こんな苦情が(木星通信 @irakusa)

 相手を「ニュースブログ」と認めた上で「肖像権および著作権侵害」というあたり、上杉氏が報道の自由を盾にして政府機関に相手してきた経緯を知っていればなかなか味わい深い。
 仮に問題の記事が事実と異なる内容が含まれる場合、それを指摘し訂正を求めるのは当然のことだろう。だが、今回の「苦情」ではそのような要求はなく、いきなり全部削除しろ、というのは随分と乱暴だという印象を受ける。
 いずれにしても、多くのクレーマー同様に、本気で訴訟を想定しているのではなく、「法律を持ち出せば相手が折れるだろう」と考えているのではないかと疑問を覚えるくらい、軽~い感じの文面だなぁ、と。

 こういった心理戦に持ち込まれた時の選択肢は、先程上げた「折れる」という他に、「無視する」「おおごとにする」といった対応が考えられる。
 何事もなく、粛々と無視するというのは、一般社会においては一番有効に働くことが多い。けれど、ネット上では外野からの反応があってだんまりを決め込むのが難しい場面もある。今回のケースも、沈黙を続けると上杉氏を支持する方々からtwitterで嵐のようなメンションがやってくる事態になったのではないか。
 そうなると、抗議があったことを公開して堂々と喧嘩に応じるというのは、コストがかかるけれど正しい選択ということになるかな。

 まぁ、これが元切込隊長氏ほどの巧者ならば、一度記事を非公開にして再度長文の質問状をアップした上で、ご丁寧に相手と同じようにプレスリリースサービスを使って内容を告知するという手段を造作もなくやってのけるわけだけど。彼の行ったことは、相手に合わせてエスカレーションしていくというしっぺ返し戦略を忠実に守っているというあたりが参考になるかもしれない。誰でも出来ることではないけれどね。

 ネットに限らず、生きている上で訴訟マターを持ちだすひとに出くわす確率は、想像よりも高い。その際に適切な対応をするためには、最低限の法律の知識があることと、知り合いに助言を求められる専門家がいることが望ましいが、大前提として、そういったチキンレースに耐えられるだけのメンタルを持つことが大事なのでは、と思う。その上で、もし揉め事がもとで会社や家庭など実生活に影響が及んだ場合には、逆に内容証明を送るくらいの用意は気持ちだけでもしておく必要があるのではないだろうか。繰り返しになるけれど、喧嘩の基本はしっぺ返し戦略ですよ。

 そんなこんなで。皆様の奮励をお祈り申し上げます。

内容証明文例200―通知 請求 要求 撤回 催促 抗議
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天災では変わらない国

 東日本大震災から2年が経過した。
 しかし、つくづく思うのは、この国では天災が変化のきっかけにはならない、ということだ。

 確かに、地震や津波の直接の被害や、原子力発電所の放射能漏れ、その後の計画停電などにより、生活が脅かされたし、考え方や精神面に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。多くの人が震災を契機にしてこれからの「生き方」を真剣に考えるようになったとも思う。

 だけど。冷徹にいうならば「考えるようになった」、それだけだとも言える。

 復興のためには杓子定規で障害になる法律のほとんどは手付かずのままだし、脆弱さが露呈した電力・エネルギー問題も根本的な部分は先送りされている。発送電の分割とかなかったことになっているし。

 Parsley的には、地震発生直後から各大臣の会見や政府・東京電力統合対策室共同会見などに出席してみて、「未曾有の大災害」を取材する場の「日常」に絶望的な気分にさせられたことを覚えている。情報提供のあり方を巡って数時間も記者と会見者が争うのを横目に、おそらくこの国は同じ過ちを繰り返すのだろうな、とぼんやりと考えていたことを思い出す。その時の失望は以前にもエントリーに書いた

 多くの方が、使命感や善意をもって懸命に復興にあたっているのは分かる。しかし、一人ひとりの尽力ではどうしようもない状況だという認識が不足しているようにも感じる。
 ミクロの部分でのケアが重要なのはもちろんだけど、大元がそのままだと場当たり的な対処で疲弊していく一方にも思えるし、政治も彼らを支援こそすれ、根本的な治癒の処方から目をそらし続けているように感じる。

 日本という国で住むということは、地震はもちろん、台風や大雨・大雪など、自然災害と隣合わせで生きていかなければならないということ。過去の歴史を振り返ってみると、教科書的な記録は残っても記憶はそれほど伝承されない。未曾有の大災害とされる今回も、一行二行で済まされてしまうのかもしれないな。

『考える生き方』を読んだ。

考える生き方
考える生き方

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finalvent
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 『極東ブログ』の管理人finalvent氏の自伝もしくは随想集、ということになるだろうか。

 2003年にブログブームが来た時、それまで無名だったひとが政治・経済・国際情勢について優れた知見をアップされることには新鮮な驚きがあった。そんな中でもfinalvent氏は日本の政治から医療、書評に至るまで縦横無尽に語り、どれも知見の広さを覗わせる内容ばかりだったし、はてなダイアリーで新聞の社説についての毎日コメントされているのも、世の中の「読み方」の格好の教材だった。ネットの中で逢える「大人」の代表格といえるだろう。

 そんなfinalvent氏が、本書では自身が20~30代だった頃の仕事の話や、結婚や家族の話、沖縄での生活や病気の話、そして「学ぶ」ということについて、ざっくばらんに筆を進めている。
 しかし、いきなりきつい。「私は社会的な失敗者になってしまった」と語り、自身のことを「負け組」という。失敗の始まりを大学院で論文が完成せず中退したことにあると述べる。「学問の能力がなかった」との述懐は、学生の頃には分からない。年齢を重ねたからこその独特の響きがある。その前後に「離人症」になったというくだりは、現在でいう「非モテ」の肖像に近いものがあるし、淡々と振り返る悩める若者の姿はいつの時代でも一緒なのだな、ということを知ることができる。

 Parsley的には、第4章の「病気になって考えたこと」が胸に刺さった。多発性硬化症を患い、眼が見えなくなる恐怖をさらりと書いてしまっているが、一度とことん病気と向き合わないと書くことは出来ない。人間の身体は25歳でがくっと能力が落ちて、30歳を過ぎるとあちこちに無理が生じるもの。だから、病気ではなくても自分自身の身体のことを真剣に考えざるを得ない瞬間は遅かれ早かれやってくるのだけれど、誰も向き合い方を教えてはくれなかった。本書では、その答えとまでは行かないかもしれないが、ヒントとなるエッセンスに満ちている。

 病気に限らず、本書で語られることを雑把にまとめると「理知的に生きるということ」になるだろうか。まず「向き合う」という行為そのものが理知的だし、そのような態度が直ちに人生に役立つわけではないけれど、「それもまた人生だ」と考えられる自体が理知的だ。そういった源泉が大学・大学院と進む中で培われたということを、第5章の「勉強して考えたこと」でその変遷を網羅し、最後に「年を取って考えたこと」で再び冒頭の時間軸に戻る構成にも唸らされる。

 物事はいくら考え抜いても考え足りないことばかりだけど、考え抜こうというのを貫き続けるひとは強いな、というようなことを読後に感じた。それって頭の良し悪しでなくスタンスのあり方だから、無学非才なりに出来ることをしていこうという気になったので、個人的には充分に元が取れました。

 とはいえ、kindle版が出ると分かっていたら、そちらを待っただろうなぁ…。

考える生き方
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