ニコニコニュースから飛んできた皆様へ

 なんか、こちらからのアクセスが多いようなので。

 この記事は削除されました。(ニコニコニュース)

 こちらの記事は、もともと『ガジェット通信』の姉妹サイト『オタ女』に私Parsleyことふじいりょうが取材して掲載されたものになります。

 私立恵比寿中学が照英とコラボ!? 『NTT Communications presents PROJECT SHOW-A to B』出演独占インタビュー(オタ女)

 『オタ女』での記事は、基本的に後刻に『ガジェット通信』でも掲載、それがニコニコニュースをはじめ各ポータルサイトなどに配信されます。
 それで、今回なぜややこしいことになっているかというと。掲載後に事務所サイドから画像の差し替え依頼があり、一度非表示にして再度配信という対応をしております。
 その際に、各配信サイトの分も削除/再配信という手配になっている(はず)なのですね。
 ニコニコニュースにも、再配信分が掲載されています。

 私立恵比寿中学が照英とコラボ!? 『NTT Communications presents PROJECT SHOW-A to B』出演独占インタビュー(ニコニコニュース)

 それなのに、なぜか画像と私の署名と、サイトへのリンクだけが残り、「この記事は削除されました。」というページだけが残されているというわけなのですね。
 私個人としては、この処置に困惑してます。もっと正直にいうと、ニコニューの中のひとにはちゃんとお給料分のお仕事はこなしてもらいたいです。
 ポータルサイトにとってはたかが一本の記事かもしれないけれど、書き手にとってはリソースを割いて心血注いだ大事な一本です。ただの「ネタ」としてではなく、アクセス=価値を生み出す「コンテンツ」として扱って頂くことを願ってやみません。

 他にもいろいろいいたいことありますが。末端の書き手の身分としては職権以上のことをさせられて非常に不機嫌です。私だって忙しいんですよ。こんなことにリソースを割かせた分のものは取り返しに行きますから、関係各位はお覚悟しておいて下さいませ。

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 <追記 2012/8/31 10:00>

 該当記事、「お探しのページは、すでに削除されたか存在しない可能性があります。」になりました。
 どなたか中のひとにおかれましては、朝からご対応頂いたこと御礼申し上げます。

議論が幻想なら「自分のアタマで考える」も幻想

 前のエントリーでこのブログの運用ポリシーとして、「影響力なり社会的発言力なりが強い相手には、疑問点や異論がある場合には積極的に論争を仕掛ける」と明言した以上、このエントリーについては触れずには済まされないな。

 「話し合って決める」という幻想(Chikirinの日記)

 ちきりん女史にとって、ネット上で議論をしない理由は「非効率だから」で「時間の無駄だから」だそうだ。要するに、「合意形成」なり「意思決定」がなされない議論は意味をなさない、というのが彼女の意見っぽい。
 まず前提として。「数が少ない人が自分の意見を通すことを諦めるというルールが民主主義」というのは間違ってます。デモクラシーの本義は、意思決定は構成員(国民)の合意により行うこと。多数決は、国会の採決などで採用されているに過ぎず、その前段階として審議という「議論」が行われ、さらに合意形成のために長時間の議論や調整が行われているという事実をちきりん女史は全部すっとばしているわけ。
 ちなみに、現代の民主主義は多数決型のウエストミンスターモデルからコンセンサスモデルへと移行しつつあり、さらには徹底的に論議をすべきとする闘技的民主主義という思想も生まれている。構成員の考えをぶつけることにより、よりよい社会へと導く、という方向性がトレンドだということを、知っておくべきなのではないかしら。

 その上で。「議論」というのは必ずしも「合意形成」のためだけに行われるものではない。より知見を広める機会になったり、自分の至らない部分の気づきの機会にもなる。そういったことを放棄するなんて、ずいぶんともったいない生き方だなぁ、と思ってしまう。話し合いあるいは「議論」を「決める」だけのものに限定して、「相手の意見を放棄させるため」に議論するという考え方は、ある意味斬新ではあるかもしれないけれどね。
 
 で。「議論」が無駄だというちきりん女史の論法を借りると、「自分のアタマで考える」ということも全て幻想になってしまうだろう。
 いくら知恵を絞ったとしても、法律を代表されるような会社なり社会なりのルールを変えることは出来ないし、税金が突然上がることを避けることも出来ない。全て国民の代表たる国会議員が立法府で合意形成をした上で決められたことを、たった一人で意義を唱えても覆すことは出来ない。
 ある程度は、法律の抜け道を見つけて、うまく節税したり、保険制度を利用して節約したりできるかもしれないけれど、それはシステムの歯車としてよく動いているにすぎず、社会に適応するため自動化しているとさえいえるだろう。
 それって本当に「思考」と呼べるものなの?
 Parsleyがちきりん女史の『自分のアタマで考える』を拝読して感じたのは、「で、その考えを実装するためにどうするの」ということだった。一見アクロバティックな思考実験が展開されているように見えるが、その実現性や社会情勢といったファクターを全て取っ払っているので、「意味がない思考」なのでは、ということになってしまう。
 つまり、別に彼女は「自分のアタマで考えている」のではなく、思考を合理化しているだけだし、その思考の出口である実現性というところを念頭に置いていないので、「考える」こと自体が不毛。「考えている」つもりになっていること自体が傲慢だし、ほんとうに考え抜いている方々に失礼というものでしょう。

 と、ここまで記したことに反発を感じた方。これはぜんぶ、ちきりん女史が「議論」ということについて展開された論法をあえて真似をしてみたことです。
 ちきりん女史は「多様性の尊重」を強調しているけれど、そこに「議論」は欠かせないし、その過程において、よりベターな「思考」が共有される可能性とセットになっていて、切り離すことは出来ない。だから、「議論をしない」というのと矛盾がある。
 まぁ、長々と書き連ねちゃったけれど、彼女が「議論をしない」理由は詭弁というもので、多様性を尊重する気もさらさらなく、人より上の位置から拡声器使って自分の意見を傾聴してもらいたいという願望が透けて見える。

 そんなこんなで、有名ブロガーだとかご著書があるとかtwitterのフォロワーが多いとかいう理由で彼女の意見を「へーすごいねー」みたいに受け入れずに、ひとまず咀嚼してみたほうがいいんじゃないのかしらと思う次第です。

 それから。民主主義とか議論とかを考えるなら、これぐらいの書籍は読んでおいた方がいいかもね。

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熟議の理由―民主主義の政治理論
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ソーシャルメディアとプレゼンスとポリシーと

 一連のネットにおける発言の責任というテーマを巡る、イケダハヤト氏との議論。新しいエントリーを拝読して、なんというか、脱力しました。

 いじめ加害者の実名をネットで発信した人間に「責任」は問われるのか(ihayato.news)

 エントリー中、「プライバシー侵害で民事訴訟になる案件、というメッセージを頂きましたが」というのは実のところParsleyのツイートなんだけど(参照)。さらに「私的制裁の是非」というところまで話を広げている。
 真面目な話、復讐や私刑を認めるのって法治国家として機能してないということだから、国の根幹を揺るがす事案で、「論じるだけの力を持ってない」方がカジュアルに問題提起していい事じゃないと個人的には思う。
 だから、イケダ氏が例示していることはすべて法的に照らして「責任に問える」で終了。

 それよりも、最初に提示された「情報の取捨選択の責任は受信者側」「インターネット上の個人に発言の責任を求めるのがナンセンス」という論点(参照)から、「実害が発生しなければ何を言ってもいいのか?」という論点に露骨なすり替えがなされていて、ちょっと待ってよ、という感じ。とても不誠実で乱暴な議論の進め方。
 イケダ氏は「精神論には興味がありません」とおっしゃるけれど、Parsleyを含めてそこに興味があるひともたくさんいるんだし、自分がないからといって他の議題へと展開されても(しかも稚拙に)困っちゃう。だいたい、「人並みの責任感はもって情報発信しています」というのと「個人に発言の責任を求めるのがナンセンス」とは矛盾していないだろうか? さらにいえば、書き手が責任を自覚することを「精神論」と切って捨てていいものかどうかにも是非があるはずだ。
 そもそも、なぜ「影響力があるんだから責任持て」と皆から突っ込まれたのって、イケダ氏が現代ビジネスで『「影響力の魔法」が使える』と明言したのに起因している(参照)。ならば、意見なり批判なりにレスポンスをする義務はなくても、それを受け止める「責任」はあるのではないか?

 というわけで、イケダ氏はこれ以上「影響力と発言の責任」というテーマについて展開する気がなくても、私にはあるので、ソーシャルメディアとその影響力、そしてポリシーについて考え続けてみたい。

 ソーシャルメディアは時にマスメディアを凌駕する

 イケダ氏のサイトは18万UU、33万PVあるとのこと(参照)。これより少ない新聞社・出版社が運営するサイトはざらにあるだろう。また、紙媒体で考えると、18万という数字は『週刊ダイヤモンド』(144167部)、『AERA』(135925部)や『SPA』(113890部)よりもはるかに大きく、『週刊プレイボーイ』(213334部)に迫っている。
 私が運営しているこのブログも、BLOSOS様に記事を提供しているし、時にYahooトピックスにリンクを張って頂くこともあるので、1万以上のアクセスを上げるエントリーがある。これは多くの論壇誌の発行部数よりも上の数字だし、新聞や雑誌では数行で読み飛ばされていることを考慮すれば、個人運営のメディアの方がマスメディアよりも影響力を発揮していると断じてもいいだろう。

 個人の影響力がネットで増大している

 もう5年前になってしまうのだけれど、コグレマサト氏といしたにまさき氏の共著『クチコミの技術』では500PV/日でそのブログが影響力を持ち始める、と指摘していた。これは今でも通用する指標だと個人的には思っている。
 Twitterにおいては、2000フォロアーを超えるとメディア化するといわれており、そのあたりからプレゼンスを発揮することができるといえるだろう。
 このように、一個人がメディアや企業といった法人よりも時として発言に力を持つなら、私語レベルの発信をするにしても、それなりの慎重さが求められるだろう。うっかり重大な情報(個人情報とかインサイダー情報とか)を流してしまった場合、またたく間に伝播するはずだ。同じように、嘘やデマの元になるようなエントリー/ツイートや、それを広げるのに加担するようなRTなどを流すことは、そのひとの信用に関わるので、一般的には気をつけるべきなのではないだろうか。
 「そんなの窮屈だ!自由に発言したい!」というひとは、twitterの鍵つきアカウントを作るなり、Facebookやmixiといった特定のひとにしか見えない場で思う存分書けばいい。「それだと影響力発揮できない!」というひと、それはないものねだりというものですよ。

 なぜ個人にとってネットでのポリシーが重要になるのか?

 「影響力があるから発言に責任を持て」の中の「責任」という言葉はいろいろと誤解が多いので、これを「規律」もしくは「ポリシー」と言い換えて考えてみると、よりクリアーになるのではと思う。
 例えば、誰かのことを誹謗中傷しない、ということは、民法的な観点からいっても守られるべきだろう。一方で、ある意見が表明されたとして、それに対して疑義を唱える、という自由をいつでも行使する、ということは誰にでも保障されている。
 その上で。影響力なり社会的発言力なりが強い相手には、疑問点や異論がある場合には積極的に論争を仕掛ける、というのがParsleyのブログの運用ポリシー。理由はそれが社会的な意味を持つ、と考えているから。イケダ氏がブロックした多くのtwitterユーザーも、そのような気持ちで批判したのではと推察される。
 ま、それを聞くのも受け止めるのもブロックするのも個人の自由だから、行為自体は論評に値しないけれど、「批判は気にならない」と「ブロックする」って矛盾があるような印象は持つ。
 以前にも指摘したけれど(参照)、イケダ氏の言説やブログ運営には軸のブレが目立つ。今回でも、「影響力が上がる」ということを享受しつつ、「情報の取捨選択の責任は受信者側」というのは無責任な印象を免れないし、さらに「発言の責任を求めるのはナンセンス」としており、反論されると「精神論には興味ない」というのは議論から逃げている。そういう姿勢には「ポリシー」が感じられないし、長い目で見れば信用されないメディア/人というレッテルを貼られてしまうのではないだろうか。「それでほんとうにいいの?」と問うているのだけど、あんまり伝わってなかったみたい。

 そんなこんなで。ソーシャルメディアの影響力が上がっている現実では、発言には一定の注意を払う必要があるし、その上でメディアとしての規律が求められているとParsleyは考えるのだけれど、いかがなものでしょう?

 皆様このテーマについてどうお考えでしょうか? ぜひコメント欄やツイッター、フェイスブックでご意見を投稿してみて頂けると幸いでございます。

   

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『an・an』2012年8月22号を読んだ&観たよ

an・an (アン・アン) 2012年 8/22号 [雑誌]
マガジンハウス (2012-08-10)

 『an・an』の最新号がSEX特集号で、AKB48の小嶋陽菜が表紙、おまけに「女性のためのDVD」が付いているということで、久しぶりに買ってみた。

 こじはるのグラビアは、「無意識のエロティシズム」とあったが正直そんなにエロくない。というか、AKB恋愛禁止なんじゃなかったっけ?
 次に268人の読者アンケート。SEXの回数が週に1回が28.4%、月に1回以下が27.6%、経験人数が1~3人が31.7%、10~20人が25.4%という結果から、格差が広がっていることが如実に示されている。笑いどころは、ローション経験が47%という結果に「編集部でもどよめきが」とあるところか。
 気になったのは、二人でイクためにしている工夫は、という質問に対して、「耳元でいつもとは違う呼び方でお互いを呼び合います(29歳・企画)」との答え。ねぇ、ここはもっと掘り下げて聞くべきなのでは!?
 あとネットカフェで既婚者とした経験とか載っているんだけど、それ見つかったら警察呼ばれるよ。というかホテル使おうよ既婚者!!

 全体として感じたのが、2006年のSEX特集号(拙エントリー参照)と比較して、SEXをお仕事にしている女性が格段に増えたなー、ということだろうか。『女医が教える本当に気持ちいいセックス』著者の宋美玄女史や、『心と体を満足させるセックス』著者の精神科医の高木希奈女史、『女医から学ぶあなたの魅力が10倍増すセックス』の山下真理子女史、ロマンスライターのピンク先生、ラブリーポップ店長の渡辺ゆきこ女史、などなど。官能系マンガ&小説ガイドでは、『負け美女』の犬山紙子女史が登場しているし、甲斐みのり女史、雨宮まみ女史、それから山崎ナオコーラ女史の名も。あと、グッズ紹介にはあやまんJAPANの3人が出ている。「お話をうかがった」相手のほぼ8割が女性というのは、この業界への浸透度が見て取れるし、レッドオーシャンになりつつあるような印象を受けた。

 付録DVDは、女子向けアダルトレーベル『SILK LABO』製作の『Love Switch』。いちおう全編鑑賞したのだけれど…。これがツッコミどころ満載だった。
 「彼の官能スイッチがどこでON」になるか、がテーマなのだけど、デートでは常に男子は、キスしたり、ホテルに行くタイミングを見計っている(はず)だから、積極的に手をつなぎにいかないでも大丈夫でしょ、と思ったり、バーに2人きりで行った時点でお持ち帰りする気される気があるんだから、わざと肌を見せたり触れたりしないでもいいんじゃないかなぁ、と思ったり。なんか、「男性が草食化している」という幻想と決め付けをそこはかとなく感じさせる内容になっている。
 「In the Room」編では、実際にセックスシーンがあるのだけれど、Hに至るまでの過程がなげーよ! お風呂入っている時点でやる気あるはずなのに隠していてじれったいし、ようやくベットいちゃつきはじめたと思ったらそこから裸になるまでの時間のまどろっこしさといったら! 女子向けなら男優さんの細マッチョな肉体をさっさと披露すべきなのに、なかなか脱がないの。さらに、行為中も「気持ちいい」しかいわない女優さん。こんなんじゃとてもとても絶頂に達せないよ!!
 総じて、「ムード作り」というところに重点が置かれているところなんだけれど、「男子に頼らず女子がムードを作れ」というのが透けて見えた。なんというか、その、「ムード」なんてゴミ箱にポイして本能のままやればいいのにね。
 個人的には「駆け引き」よりも、「本能のコミュニケーション」としてのセックスをしたいし見たいなぁ、というのが感想になるかな。

 そんなわけで、なかなか笑わせてくれる2012年のSEX特集だったのだけれど、中にはオーガズムに至るまでのステップやレッスン、セックスに関する疑問に対するQ&Aなど、勉強になる点も多々あるので、セックスでお悩みの方は一読の価値はあるのではないでしょうか。

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書き手の責任について考察してみる

 前回のエントリー「影響力がなくても発言に責任はあるでしょ」に対して、イケダハヤト氏から、「書いたことに対して責任が存在すると常に襟を正すべきだろうって曖昧でよくわからない。個人攻撃ではなく、ここら辺を具体的に読みたいです」というリクエストを頂いたので、もうちょっと噛み砕いて考察してみることにする。少し長くなりそうなので、飛ばし読み推奨。あ、あと「個人攻撃」という表現、Parsleyからしてみればとても不本意だし不快だということは明言しておきます。どのあたりが「攻撃」なのか、明示して頂きたいですね。
 参考リンクはこちら。

 情報の受信責任と発信責任(Film Goes with Net)
 情報発信者の責任は「規範」に過ぎない(カエルの卵)

 まず、前提として以下3つの点を明確にしておきたい。

 「責任」と「文責」

 Wikipediaの「責任」の項には「元々は何かに対して応答すること」とある。また、日本においては「義務」と混同していることが多いともされている。イケダ氏もこのあたりがごっちゃになっている印象を個人的には感じているが、ひとまずおいておく。
 基本的に、社会において自由があるところには責任が発生する、というのは広く認識されていることのはず。つまり、「発信」する自由を行使したことに対する責任、というものからは逃れられない、という理屈になるね。
 また、メディアにおいて近年「文責」というものを明確にすることが求められている。新聞を全て記名記事にすべき、という議論も随分なされているし、個人運営のメディアが次々に生まれている現在に置いて、「誰によって書かれているのか」ということを明示し、疑問点や事実と異なる可能性があったことに対して「応答責任」がある、というのは社会的な「ルール」として運用されつつあるように思える。

 「発信責任」と「受信責任」

 杉本穂高氏がおっしゃっている、「情報の取捨選択の責任は受信側にある」というのは、責任を「自由」という言葉に置き換えればほぼ同意できる。一点補足するとするならば、受信したことをblogなりtwitterなり、誰でも閲覧できるネットで見解や意見を書いた際に、そのひとは直ちに発信側になる、ということ。つまり、ネットで何かを書くということは、受信者でもあり発信者でもある。
 だから例えば、受け手が「こんなアホなこと主張して死ねやボケ」ということを書いたとすれば、公の場で面罵しているのと同然だし、元の書き手がその気になれば名誉毀損と恐喝だと相手に「責任」を問えることになるね。
 イケダ氏にしろ、杉本氏にしろ、この「受信責任」というものを自己責任である、という意味合いで捉えているような印象を受ける。要は間違って解釈したりするのは、受け手の勝手でしょ、と述べていると私は読んだ。それに対する「責任は持てないよ」というのは書き手からしてみれば素直な感覚だし無理もないよなぁ、と個人的にも思うし過去にそう明言もした(拙エントリー参照)。その時もえらく叩かれましたがね(笑)。

 「責任」は「取らされる」ものではなく「取る」もの

 これはParsleyの感覚なので異論がある方も多いのではないかと推察するのだけれど、「責任」は誰かから強要されるものではなく、自覚するものなのではないかと考える。
 最近だとトライバルメディアハウスの植原正太郎氏が、「Lineが流行ってmixiは死ぬ」と題したエントリー(参照)で多くの批判を受けたが、その後にタイトルを変更して謝罪をしたのは、誰かに強要されたものではなく、ご本人が責任を感じたから措置を取ったという認識でいる。
 政治家もよく不祥事を起こした当事者について「出処進退はご自身がお決めになること」とコメントをするのも、基本的には「責任は自分で取るもの」という意識でいるものだと考えられる。

  
 前置きが長くなってしまった。ここからが本題。
 Parsleyが主張したいのは、次の二点になる。

 ・書き手は発信したことに対する「責任」を感じるべき
 ・「責任」に無頓着な書き手は信用されなくなっていく

 まず前者。これはネットでも紙媒体でも同様に、公の場に発信した文章に関して、誰かに何らかの影響を与える可能性があることを自覚することが大事だと思う。
 その上で、影響を与えられた側から感想なり批判なりを受けたり、自身の意図とは違う解釈をされることになったりすることが起きた際に、それに応答するなり甘受するなり、する必要がある。批判に対して反論する自由もあるし、スルーしたっていい。誤読やミスリードが起こった際、黙って受け止めて自責の念を感じるのも、立派な責任の取り方だろう。
 イケダ氏に関して特に感じるのは、「スルー耐性の低さ」。現代ビジネスの記事に対して徳力基彦氏が指摘しているけれど(参照)、ネット上ではエントリーやツイートに対してネガティブな反応があることなんて日常のこと。twitterのフォロワー1670、ブログのアクセス1万/月というParsleyでさえ、時には激しい批判を受けることがある。徳力氏はおやさしい方だからマイルドな表現にしているけれど、本音では「何を言っているんだこの青二才は」って思っていたに違いない。
 いずれにしても、ネットにしろ紙媒体にしろ、何かを書いて主張したり、情報発信をするした以上、他人からの眼差しからは逃れることはできない。そこには好意的なひとだけではなく、ネガティブな感情をぶつけてくるひともいるだろう。それを全部払拭しようとするのは、まぁ無理だよね。だから、「責任」を受容するということは、批判を甘受できるかどうか、にかかっているのではないだろうか。
 そういった中、「発信の責任よりも受ける側に責任がある」って強調したなら、「自分が書いた内容は適当なんだから信用しないでください」と捉えられても仕方ない。「それでほんとうにいいの?」というのが、イケダ氏に対するParsleyの問いかけになる。

 ということで、後者について。
 影響力の多寡によらず、書いている内容に対して誠実な対応をしているひとは信用される。先程も数字を挙げたけれど、木っ端ブロガーに過ぎないParsleyがネットメディアを中心にお仕事させて頂いたり、エントリーがYahooトピックスに取り上げられたり、Wikipediaの参照元にされたりするのは、書いていることに対して責任を持って発信していると認められているからだと思っている。
 一方で、面白くてエッジの利いた情報を提供したり、セルフブランディングによりアクセス数を増やしていくという手段を取るのは、短期的に効果を得ることがあるかもしれない。だが、先に記したような「責任」を軽視しているとすれば、「そういうひとなのだ」と判断され中長期的に見て信用が落ちていくのではないだろうか。
 現在多くのメディアは、アクセスが即ビジネスになる広告モデルを採用しているところが多いので、どうしても目先の数字を追いがちになっている。新聞でさえ、飛ばし記事や吊りタイトルを付けているところが珍しくなくなっている。その方向性は正しいとは思わないし、新興のネットメディアや個人運営のサイトほど、情報の信頼性や発信に対するクオリティには敏感にならなければならないのではないか。
 「書いたことに対して責任が存在すると常に襟を正すべきだろう」というのは、つまりそういうこと。
 たぶん、イケダ氏は情報発信することに対してもっとカジュアルでいいじゃん、というお立場なのだと推察するのだけど、ある程度、誰かに対して影響を与えたいと望んでいて、プレゼンスを高めようとするのであれば、ご自身が書かれている記事やツイートに対する責任を自覚しないと、どこかで落とし穴にはまるよ、と思うわけです。

 あと、イケダ氏は「法的責任」というところに対してご関心があるようなので付け加えると、最近では民事訴訟で名誉毀損など、メディアではなく筆者に対して問われるようになっているのは、2006年の烏賀陽弘道氏とオリコンの裁判(Wikipedia参照)が示している。
 例えばイケダ氏のニュースでは海外事例の紹介が多いけれど、その情報源があいまいなものだとしたらどうするのだろうか。IT企業の増資や減資、買収の検討といったものも扱っているので、もし虚偽だった際に、該当企業から訴えられる可能性はあるかもしれないね。もっとセンシティブなのは政治関連。最近ではミット・ロムニー氏のtwitterアカウント買収疑惑についてエントリーにしていたけれど(参照)、同じことを日本の政治家をしていたとして、疑惑レベルで発信していたのなら訴訟マターになるのは充分にありえるだろう。
 その時に「いやー情報の取捨の自由は読み手にありますから。あははは」なんて言説は通用しないでしょ。

 そんなこんなで。ネットでどんな小さいことでも発信する際には、自由を行使した責任というものが発生するし、その自覚と覚悟がないひとは、永久にROMっていればいんじゃないですかね、というのがParsleyの意見。私はイケダ氏からの応答責任を果たすという選択をしたが、このエントリーに対して、イケダ氏がどのような対応を見せるのか、期待せずに期待したいと思います。

 ついでに。「責任」ということに関しては、以下の書籍がおススメです。

「責任」はだれにあるのか (PHP新書)
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「責任」ってなに? (講談社現代新書)
大庭 健
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影響力がなくても発言に責任はあるでしょ

 なんか、イケダハヤト氏がこんなことをおしゃっているので、つらつらと記してみようと思う。

 「影響力があるんだから発言に責任を持ってください」(ihayato.news)

 書き手のミスリードや読み手の情報取捨の責任に関しては、Parsleyも2011年6月に書き手の側として直面した。その際に「書いた記事の誤解の責任は誰にあるか」と問われて「読み手にある」と答えて多くの顰蹙を買った。

 書き手の責任。読み手の責任。(Parsleyの「添え物は添え物らしく」)

 まず現実として。私はリンク先のやり取りを受けて、ライターとしての仕事先を一つ失っている。つまり書き手としての「責任」をとらされたわけね。それについてはこちらのエントリーに記したので、ご興味のある方はご覧頂くとして、一般的にメディアで書くということには「文責」というものが発生するということで合意形成が出来ているように思える。

 それで。今ではメディアというものはブログ、twitterなどソーシャルでかつパーソナルなものになっている。時として、同じ事象のことを扱っていたとしても、新聞や雑誌といった紙媒体の記事よりも、個人でネット上に書いたものの方が読まれる可能性がある。このことは、ネットで何かものを言いたいのであれば絶対に踏まえるべきことで、不文律みたいなものだと思っていたけれど、イケダ氏はおろかネット歴が長いはずのちきりん女史までがてきとうに済ませていると知って、「あー人間ってほんといい加減だよなぁ」と感じてしまった。

 「ペンは剣なり」ということわざを持ち出すまでもなく、公の場での情報発信には何らかの悪い作用が働くかもしれないというのは、影響力の過多に関係なく認識すべきことだ。「おはようございます」という何気ないツイートにさえ、それが平日の13時に発せられたとすれば、誰かを「こいつ俺が汗水垂らして仕事しているのにのうのうと熟睡しやがって」という不快な気持ちにさせるかもしれないのだ。
 「そんなこと構っていられないよ」と思った方、あなたは正しい。そう受け取られる相手の感情まで、コントロールしようというのはむしろ僭越というものだ。でも、そういう作用が働く可能性があるということは、オープンな空間で「記録」される以上は「書いた」ことに対して「責任」が存在すると常に襟を正すべきだろう。また、井戸端で「言った」ことは「記録」されない。「話す」ことと「書く」ことの違いに敏感になるべきだ。

 イケダ氏の場合、ノマド的な働き方を推奨していくのは個人の主張なので何とも思わなかったのだが、「夫・フリーランス、妻・正社員という布陣は合理的」というエントリーを読んで、これまでさんざんデメリットを強調していた正規雇用についてtwitterで「好き好き」発言を繰り返している奥さんにそれをさせているのかと思ってさすがにカティンと来た。そして今回のエントリーでさらにカティンときた。その場その場のエントリーで、都合のいい言説を展開しているからだ。要するに、軸がぶれているのだ。

 今回のエントリーを読んで、まともな読者=クライアントなら、イケダ氏と仕事をしたいとは思わないだろう。少なくとも「プロブロガー」と標榜するのであれば、なおさら書き手の責任というものに人一倍センシティブであるべきなのに、それがまったくないということが明らかになった上に、自分の書いたエントリーに対しての文責をも放棄することを宣言している。営業的にも、これってどうなんでしょうねぇ。

 というわけで、影響力があろうがなかろうが、書き手としての責任というものはあるし、それを担う意思と覚悟を持ち合わせてないような方は、さっさとネット上から退場願いたいと思う次第です。

—————————————————————————

 (2012年8月10日追記)

 イケダハヤト氏のリクエストがあったので、書き手の責任についてさらに考察してみました。
 ご興味のある方はご一読を。

 「書き手の責任について考察してみる」

 

ジャーナリストの実力はもともとこんなもの疑惑

 これから記すことは、ぜんぶParsleyの妄想なので、関係者・出版社各位で「それは違う」ということがあれば、容赦なくツッコミを入れて頂きたいところです。
 まず、佐々木俊尚氏が下記のような記事を公開しているので、そちらもご参考に。

 なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?

 要約すると、2000年代半ばまで、フリーライターには週刊誌から論壇誌というステップがあり、それで生活ができたが出版不況により論壇誌はほとんどなくなり、週刊誌も部数が激減している。その結果、ライターやジャーナリストは自分自身で収入をトークイベントやメルマガなどでマネジメントしていかなければならなくなっている。読者と直接向き合う副作用としてニーズに合わせて扇情的でウソの記事を書く人も増えてしまっている。…こんなところだろうか。
 また佐々木氏は、「プロの編集者の評価」がなくなったことも、劣化の原因に挙げている。間に入る編集者が「いや、これは読者には理解されにくいかもしれないが、いい記事だから」と評価してくれていた、というのだ。
 しかし。これは本当にそうなのだろうか?

 私個人の勘では、今現在虚言を弄したり、一方的な政治信条に肩入れしたり、そもそもお仕事がお粗末な方々って、週刊誌で書いている時からそうだったのではないかと思う。
 だって週刊誌って、ソースとして挙げるには正確性に欠ける媒体だったし、今現在もそうだ。部数が売れるネタならば、真偽は問わない。そんな内容の中吊り広告を見かけることは珍しくなかった。
 また、週刊誌は時に政治における情報戦の場としても機能していたはず。そこにやんごとなきひと達の介入や、金銭的な授受とか、そういったことが一切なかったんですかねぇ。個人的には、とてもそのようには信じられない。
 週刊誌にジャーナリズムがなかったと極論するつもりはない。中には警察や司法と戦ってきた方々はたくさんいらっしゃったはずだから。ただ、ことに政治や社会・芸能といったジャンルにおいて、真偽があやふやなネタが大きく扱われることも珍しいことではなかったし、編集者としてもウラ取りよりも「面白さ」とか「読者にウケる」といったファクターを優先していたんじゃないの?
 もうひとつ。「権力と戦っている」という幻想が、週刊誌出身のジャーナリスト・ライターには強いような印象がある。政治家なり官僚なりを敵として、彼らの失点になり最終的には失脚に追い込むようなネタが「いい記事」とされていたのではないか。そして、彼らの多くは、「権力と戦う」というお題目を忘れて、「○○のタマを取る」ことに血まなこになっていたのではないだろうか。その目的のためには真偽は関係ない。そういうような記事もたくさんあったはずなんじゃないの?

 だから、週刊誌出身のライターやジャーナリストは、なんらかの「目標」があり、それを達成させるためには虚偽の情報でももっともらしく取り上げ、読者を扇動する、という構造になっているのではないだろうか、と思う。
 そして、彼らに活動の場を与えているネットメディアの多くは、編集が機能していないので、そのままスルーして乗せてしまう。最近では、玉石混交で両論併記であることが「多様性」で「中立」だと勘違いしているとしか思えないメディアばかりなのも、彼らが跋扈する余地を与えているように感じる。
 
 そんなこんなで。「活躍」しているフリージャーナリストの多くは、もともと大して調査能力もなく、出版村で上手に立ち回って面白いネタを拾えていたから重宝されていたので、本来の「真実を追う」といったような使命感があるわけでもなく、それを手繰り寄せる能力もない、というのが実際のところなんじゃないですか、と思うわけです。

 あ、最初にも書いたけれど、Parsleyは週刊誌でお仕事したことがないから、ここまで記したことはぜんぶ妄想ね。もし違っているというのであれば、適時ご指摘お待ちしております。