世代間対立は不回避だしむしろ促進すべき

 旧聞になって恐縮だけど、国際大学GLOCOMのFTMフォーラムグリーンテーブルの四回目で、閑歳孝子女史が『「個」と「仕事」と「ソーシャル」』というテーマで、個人の働き方がどう変容していくのか、という問題提起のもと、ディスカッションを行った。
 すごく乱暴にまとめると、「高消費・安定志向」のガンダム世代と「低消費・シェアリング」といったワンピース世代へ変化しつつある、というような全体像が提示なされたのだけど、主に40~50歳代の参加者から「その区分けは乱暴」といったそもそも論や、「数字を残せていないことからくる怨嗟しか感じられない」といった声が上がり、議論の整理がつかなくなってしまった。
 それで、モデレーターの庄司昌彦先生が、何度も「この場で世代間対立を議論するつもりはない」と修正したんだけれど、そもそも世代によるワーキングスタイルの変化がテーマなので、世代による衝突が起きるのって自然じゃん? で、いかに社会状況による変化に「上」の世代が合わせられるのか、というところにフォーカスすべきだったと思う。
 途中、「若手には成功体験がない」という話になったので、私が「成功体験ではなくて、評価された体験がないのでは」というような発言をさせて頂いた。
 これも乱暴にいうと、「いくら数字や成果を上げたとしても、昇給や昇格することがない。マネジメントが機能している組織で働いた経験が自分にはない」という話をしたのだけれど、会場の上の世代にはぜんぜんピンと来なかったみたいだった。いや、だから「怨嗟」あって当たり前でしょ、ということなんですけれど。
 ある方が終了後「もう英語を勉強して海外に逃げるしかないね」って冗談めかしておっしゃっていたけれど、バブル経験世代以上と、ロストジェネレーション世代以降の間には、底なしのクレパスがあるということが浮き彫りになったディスカッションだった。
 こりゃどうやっても、世代間の融和は無理で対立は不回避ですよね、と。

 今、経営や管理職になっているのは団塊世代の少し下やバブル世代なのだけれど、私の知る限りでもかなりの組織でマネジメント(人事・評価)がなされてないなーと思う。さらにいうと、「法令順守」という基本的と思えることすら、踏まえてないとしか思えないのね。
 びっくりさせられたのは、BLOGOSに転載されたエントリーに、「企業のおかれた経済環境問題を法的問題にすりかえる、経済を破壊するITファシズム的発想だ」って批判されたこと。(参照
 いやぁ、法治国家なんだから、労働基準法内を遵守するのは当然で、それを守れないのはブラック企業と呼ばれても仕方ないですよね、と個人的には思うのだけれども。いやびっくりだわ。
 と、思っていたら、こんな記事がアップされていた。

 異議あり! 有給休暇 – 守井 嘉朗(河北新報 オピのおび ふらっと弁論部-BLOGOS)

 いろいろ述べていらっしゃるけれど、要約すると「働いていない時間に給料が発生するなんて許せない」という感情論なので、これを掲載した河北新報の見識を疑わざるをえないとしかいえないなぁ。未来がないのは、日本ではなくて法令順守という基本も踏まえていない経営者が率いているビッグママという会社でしょうね。
 前にも指摘したけれど(参照)、そもそも労働基準法が時間単位で働くことが前提になっていて、本来は発生した業務の「成果」に対して払われるべきものが、拘束された時間によって払われることに対して疑いがないから、こんな意見が出てくるのだと思う。
 法令を破る労働を強要し、マネジメントが出来ていない経営者の率いる会社は、社員のモラールが低下する。そして、ロスジェネ世代の人間は使い潰されるか、その前に会社を辞めていく。そういった構図が、今あちこちで起きている。このことに、今の経営者や管理職が気づくことは、たぶんない。法令順守って概念に対する理解がないんだもん。

 話を戻すと。「世代間対立は何も生まない」という意見に、Parsley個人としては反対。まず議論のないコミュニティに成長はないというのが一つ。社会環境の変化についていけないお年寄りには退場してもらうためにも、現状を突きつける必要があるというのが一つ。まぁ、それでも理解できない程、ほとんどのバブル世代はどうしようもないと、たまに思うこともあるけれど。
 とにかく、対立を厭う空気よりも、討議してより最適解を探る方が何倍も建設的なので、若手研究者は政治的に利するからといっていい子に振舞うのをやめてどんどん世代間対立を促進すべき。あと、だめなものはだめだとはっきりと言うべきだし、社会変化についていけないひとは決裁権のある立場から降りるべき。

 私自身は、もとより失うもの何もない立場だし、どんどん上の世代には突っかかってとことん討議したいと思う。
 ただ、上の世代もそれなりに狡猾なので、そういった議論からは逃げようとするだろう。その時のための、社会をハックする方法論も、併せて考えないといけないなぁ、と考える次第。

 
 

『「統治」を創造する』から見える日本の方向性

「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会
谷本 晴樹 淵田 仁 吉野 裕介 藤沢 烈 生貝 直人 イケダハヤト 円堂 都司昭
春秋社
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 最近、忙しかったり手元不如意だったりでぜんぜん本を読めていないParsleyだけれど、この本だけはちゃんと触れておこうと思う(思ってからも随分時間が経ってしまっているけど)。
 本書『「統治」を創造する』は、西田亮介氏が中心となったプロジェクト『.review』の関係者を核として、「新しい公共」「オープンガバメント」「リーク社会」といったテーマについて、情報社会論からビジネス・文芸批評といった幅広い角度から検証した論考集。ある意味では『.review』の集大成的な位置づけも出来るかもしれない。

 まず、序文で西田氏が現状認識として、社会学者の高原基彰氏の「自由に関するコミュニケーションの不在による社会の機能不全」という言葉を引いて、「ヴィジョン」「ポリシー」「オペレーション」というレイヤーで日本社会が機能不全に陥っている、と指摘する。その上で、その処方箋としてのガバナンス(統治)の再設計の方法論として、「新しい公共」「オープンガバメント」「リーク」といったエレメントを提示し、東日本大震災後の変化も踏まえて各章を若手を中心に論考している。
 まず、谷本晴樹氏がネット活用としての「eデモクラシー」がイギリスやアメリカで勃興し、日本で「熟議」といった概念が生まれた経緯についてまとめていて、それを受ける形で塚越健司氏がウィキリークスを軸に情報の透明性について論じている。その後、淵田仁氏がやや批判的な視点を交えつつオープンガバメントの可能性について考察し、吉野裕介氏がハイエクとオライリーの比較から「ガバメント2.0」について検証している。
 その後、西田氏がタイガーマスク現象や東日本大震災でのITによるボランティアや寄付活動を主に社会貢献のあり方について紹介し、藤沢烈氏が政府職員として内部でみた大震災時の「統治」の現状と「新しい公共」「オープンガバメント」の取り組みについて網羅的に触れている。
 生貝直人氏の行政活動に基づいた文書についての著作権の論考は刺激的だし、円堂都司昭氏のザミャーチン・ハックスリー・オーウェルらが描く監視社会というディストピアから逆説的に「ガバメント2.0」の可能性を探るという論考は、この領域に関心のない方でも是非とも一読して頂きたい良文。唯一、ビジネスについてのイケダハヤト氏の章のみ水準に達してなかった(もっとまともに取材すべきだ)が、まぁご愛嬌というものだろう。

 個人的には中でも淵田氏の論考における、政治参加における自発性の必要に関する考察については非常に興味深かった。
 放射能汚染されたがれき処理の問題における反応に見られるように、震災後一年で明らかになったのは、日本大衆における想像力と公共心の欠如、もっといえば利他心のなさだと思える。これは、本書で取り上げているような「新しい公共」「オープンガバメント」を軸としたガバナンスの再設計というテーゼからすると、根底から揺るがしかねない「日本人の病」だ。
 淵田氏は、「自発性なき政治は可能か」と問い、日常と連続した政治へと概念を拡張することによる「公」と「私」の境界線を抹消することによって、「政治概念のラディカル化」することを期待している。そして、そのキーになるのが「情報」の「集積」だと指摘する。

 彼の構想は、ITテクノロジーにより、ある程度は実現できるのでは、とParsleyも考えることがある。
 例えば、ブラック企業の問題。そもそも超過労働が頻発している時点で労働基準法が機能していない、ということになるのだけれど、これを是正を目的とするならば、こんなやり方が考えられる。
 ある人がtwitterで「あーきょうも残業だぁ」とつぶやいたとする。「きょうも」ということだから彼/彼女は日常的に残業をしているのだろう。遡ってみると、一ヶ月で15日、「残業」というフレーズをつぶやいていたことが明らかになった。
 同様に、twitterにおいて15日以上、残業についてpostしているアカウントが10万計測されたとする。
 となると、現在申告制である労働基準監督署における企業への監視強化や指導の徹底、もしくは法律自体の改正への圧力として機能するかもしれない。
 おそらく、「残業」というキーワードをクロールして各アカウントにおける数字を検出するプログラムを組むのはそれほど困難ではないので、政治圧力として機能させるのは、むしろ「メディア」としての役割になるだろう。私個人は、これこそが現状のジャーナリズムを更新する「テックジャーナリズム」だと考えているけれど、ひとまず置いておく。
 ここで重要なのは、各個人が「今日も残業」とつぶやくことには、「政治的自発性」に基づいているわけではない、ということだ。彼/彼女は「日常」をつぶやいたのにすぎない。それが、「情報の集積」としてまとまった数になった際に、統治を「よりましにする」ために機能する可能性がある、ということにより、より多くの人が「日常」についてネット上に書き込むようになる。その連鎖が、社会を更新していく。
 つまり、そういったアーキテクチャーを創造、あるいは設計していくことが、私たちには求められているんじゃないかなぁ、と思うわけ。

 いずれにしても。社会学や政治学といった領域に関心のある方にとって、本書は必読だし、それ以外の方でも若手研究者がどのようなことを考えているのか、ということが詳らかになっているのでオススメです。

「週刊誌」的になるネットメディア

 ニコ生×BLOGOS番外編「3.14頂上決戦 上杉隆VS町山智浩 徹底討論」

 このニコ生、来場者数192400人だって!すごいなぁ…。これだけの耳目を集めたというだけで、上杉氏・町山氏両者にとっても「勝ち」と判定してもいいんじゃないかしら。Parsleyは忙しいので観ませんし、興味ないですけれど。

 最近、もとからよくない評判をさらに落としている自由報道協会だけど、個人的には会員の皆様の出自が週刊誌をフィールドにされている方が多い、ということが良くも悪くも作用しているよなぁ、と感じることがある。
 ざっくりというと、週刊誌は新聞社系や写真週刊誌が次々に休刊になっているし、全体の部数も減少傾向が続いている。それで、コスト削減の対象になるのは外注(フリー)になっている、というのが現実なんだろう。それで、2009年後半頃から、フリーランスの記者・ライター・ジャーナリストらが、ネットに活路を見出すようになっている。その流れで、互助組織のような位置づけで自由報道協会が誕生したのだというのが、私の認識になる。
 えっ? 記者クラブの開放? 世界標準の記者会見? そんなのお題目でしょ??
 大臣会見に出てる会員の方はめっきり減ったし、おしどりマコ女史の会見なんか、身内で回して話題を作るというマッチポンプ具合でまぁ茶番です以上という感想くらいしか出てこないし。

 まぁ、自由報道協会に対する悪口はこれくらいにするとして。
 彼らもそうだし、武田邦彦先生の放射能に関する記事なども典型なんだけど、不安を煽って読者の耳目を集めるって、極めて週刊誌的な手法で、コンテンツとしては古典的な作り。これが、ネットメディアで「通用」しているのが現実だということには、木っ端ブロガーとしてかなーり複雑な気分になる。
 BLOGOSのアクセスランキングで上位に来る天木直人氏や早川忠孝氏などの「DISり芸」も週刊誌っぽいけど内容は軽くてエビデンスが定かではないこともしばしばだし、みんな大好きなChikirin女史とかも「自分の頭で考えて」いるが故の勇み足をしていることが散見され、極論すればこれも週刊誌的だ。
 BLOGOSだけでなく、ニコニコ生放送の討論番組でも「もうオワコンじゃない?」といった識者・論者ばかりで若い人材はなかなか登場してこない。
 そんな中で、荻上チキ氏の『SYNODOS』は気鋭の論客の発掘をかなり頑張っているけれど(なにしろ、こんな私にも書く機会を与えて頂けたくらいだ)、知名度という面では、テレビ・新聞・週刊誌で長年活動してこられた方々には分が悪いというのが現状だろう。

 一方で、各ニュースサイトの芸能人情報の中心になっているオリコンSTYLEモデルプレスを見ると、ほとんどが会見の要約か、事務所のリリースを載せているだけで、はっきり言ってしまえば「大本営発表」をそのまま流すという簡単なお仕事している。
 逆に言えば、「スキャンダル」にそれほどのバリューがなくなっている、とも取れるし、それでPVも取れるしユーザーからのコメントやブログ・twitterなどでの言及もかなりされるから、それで情報としての価値は充分だということなんだよね。
 いずれにしても、こういったショービス方面では、週刊誌がさらに劣化した情報が氾濫する結果となっている。なんせ一次情報が本人ブログやtwitterになりつつあるくらいだし…(ただ、これは悪いことばかりとも言えないと思っているが、考察は別の機会に譲る)。

 だらだらと記してしまったが、ネットメディアの「週刊誌化」と、それにユーザーが反応・言及することにより、もともと週刊誌などが主戦場でオワコンだったはずの論客や「ジャーナリスト」たちが延命して、結果的に世代交代が遅れて批評のアップデートもなされない、という悪循環の一歩手前に来ていると思う。
 BLOGOSにしろ、ニコ生にしろ、自由報道協会の中のひと達を積極的に「使った」責任があると思うし、安易にPVやツイート数、「いいね」の数で判断してきたツケは、どこかで払わないといけないんじゃないかしら。ま、簡単に言って、メディアとしての矜持のなさは既存のマスコミ以下ですよね、と言わざるをえないよねぇ…。

 しかし。こんな状況で、熟議なんて本当に実現するのかなぁ、と思ってしまうのだけれど、これについては主にアーキテクチャーさえ確立されれば前向きになれる要素もある気がしている。これについては次のエントリーで取り上げてみたい。

『ガジェット通信』さんで連載「なぞなぞ霞ヶ関」はじまりました!

 2009年の鳩山民主党政権がはじまってから、岡田外相(当時)が記者会見を「オープン化」して以来、継続的にウォッチしているうちに、消費者庁の会見にもぐりこむことに成功、それ以来、内閣府・法務省・総務省・国土交通省…と徐々に入っていくことができるようになったParsleyですが、この度、『ガジェット通信』さんで連載をさせて頂くことになりました!

 題して、『なぞなぞ霞ヶ関』

 霞ヶ関や永田町では常識とされていることでも、門外漢の私のような木っ端ブロガーからしてみれば、「なぜ?」というしきたりや決まりは山のようにあります。それが窮屈に感じられることもあったり、不思議に思うこともしばしばです。
 それを一つ一つ、政治家や官僚、そして既存メディアの方々に聞いてみて明らかに出来ればいいな、と考えております。

 第一回目では、「オープン化」したはずの大臣会見が、国会議事堂の中で開かれるとフリーをはじめとする「記者証」を持たない人間には門戸が閉ざされている「なぜ?」について書かせて頂きました。

 【なぞなぞ霞ヶ関】数100メートルが遠い……国会議事堂内で取材できないのはどうして?

 これからも、各大臣会見や省庁の発表で感じた疑問や、ささいな「しきたり」に至ることまで、霞ヶ関の「なぜ?」について探っていくつもりでおります。
 摂ブログともども、何卒よろしくお願い申し上げます!