採用基準、違っていなイカ?

 【前回までのあらすじ】

 生活保護獲得大作戦に失敗し、意気消沈するParsleyに一通のメールが派遣会社より届いた。半年間のWebディレクター案件、時給2000円。「マジで?」 即座に電話して面接の日取りが決まると、なけなしの1000円を使って床屋に行ってすっかり伸びてしまった髪を10cm以上切り、一週間入ってなかったお風呂に入って髭を剃って、準備万端整えたのを確認すると指定の駅に向かうのだった。

 【面接の感触は悪くなかったが…】

 派遣会社の営業担当の方と待ち合わせ。名刺に「課長」とあり、「これはいけるかも」と期待度が上がる。派遣先との関係がかなり密だということだからだ。
 A社はIR関連の紙媒体を主に扱っている会社。それが冊子だけでなくネットもというクライアント側の要望に答えるために、今回はじめてWeb専属のディレクターを採ることになったという。期間は7月末まで。決算が終わって総会がはじまる頃までが繁忙期か、と思う。
 出版社・ITベンチャー時代に、新規サイトやリニューアルを手がけ、要件定義、デザインカンプ作成、スケジュール管理などを経験しているから、「新たに立ち上げる」という仕事には大きな魅力を感じた。もちろん、時給がいいのは言うまでもない。

 面接では、現場のディレクターが3名、総務人事から1名と対面。一通り自己紹介を終えると、先方の執行役員が「アイドルのMCもやられていたんですか。楽しそうな仕事ですね」と笑顔を向けた。私も笑みを返したが、内心はマズいと思っていた(理由は後述)。
 その後は先方の要求をこちらが逆に聞き出すように会話が進んだ。どうやらA社は、紙の制作とwebの制作のフローを共通化を目指しているということが分かると、実現に向けたフロー案をその場で3パターン述べた。データの正確性を重視している(IRだから当然すぎる)ことも、対策を示すことができた。
 最後に人事から、「昔からいるデザイナーとのコミュニケーションは」と尋ねられた。「紙とWebと別に動くと二重発注に繋がりますし、クライアント様のことをよくご存知のデザイナーさんとは教えて頂くことが多いと思います」と返答。
 「慣れていらっしゃいますね。先方の質問に的確に答えてました」
 そう派遣の営業担当に褒められたくらい、面接は上手くいった。某大手系列の小型スーパーのアルバイトの面接の、数十倍は上手くいった。ひさしぶりに「現場」の空気を吸ったという実感もあった。「ちゃんと復帰できるかな?」という不安は消えていた。ただ、唯一の問題は。

 翌日夜。
 「結論から申し上げると、今回はご縁がなかったということで」
 落胆よりも、やっぱりね、という感想が先に出た。

 【ミッションと採用人事のミスマッチ】

 まぁ、落とされた時点で負け犬の遠吠えでございますが。

 営業担当によると、他の派遣会社の、同業種に近い人が採用されたそうだ。「より業界を分かっている」ということが決め手だったということ。
 ちょっと待て。今回の募集求人のミッションは、「より効率化されたWebサイト作成のフロー構築と運用、スケジュール管理」のはず。既存の紙のオペレーションを粛々とすればいい、ならともかく、業界慣習とか踏まえていることって、必要条件?
 むしろ、外注を含めた数人のチームで新規サイトを立ち上げて運用させた経験の方が、現場ではより役立つのでは? ヒアリングシートの作成などの営業との連携の経験も、複数案件を同時進行させて全部の商談に立ち会えない以上は重要だろう…。
 なんか、採用基準、違ってなイカ?

 そうはいっても。こういったケースはよくあること。明らかに能力とミスマッチな職場に放りこまれることもあれば、本来は適応する人が弾かれる場合も生じている。
 この原因は、大きく分けて二つあるだろう。

 一つは同業種同職種偏重。
 同じような仕事ならば、下手な仕事はしないだろうという安心を求める気持ちは分かるけれど。個人にとっては職場ごとによって環境ってPCにしろ社員構成にしろがらりと変わるので、多かれ少なかれアジャストする時間は必要になってくる。それをいかに短くするか、といったことを期間限定の派遣は要求される。
 これには、下手に近い仕事の経験があると逆に適応するのに手間取る場合がある。

 もう一つは、案件のブラッシュアップ不足。
 簡単にいえば、そこに雇用を必要とすべき理由や、要求とされるミッション、それに適応する人材が、明確にイメージされぬまま人を入れようとしている場合。
 雇用された側は「話が違う」ということになるし、雇用側からしてみれば「ぜんぜん仕事ができない」ということになりがち。両者にとって不幸な結果となるが、元凶は「何の仕事をさせるべきか」をリストアップされていないからだ。
 これは、新規事業・案件を立ち上げた、というケースで陥りがちなように思える。

 今回のA社は、両方が当てはまっている。ジョインしていたらそれなりのストレスだっただろうな、と思うけれど、やっぱり時給2000円。逃がした魚は大きい…。

 【建前と本音にすり潰される30代求職者】

 とはいえ、本当に「より業界を分かっている」というのが理由だったのだろうか。
 単純に同程度のスペックなら若い人を選択するのは分かりきっている。私以上の経験と能力がある人材だったのかもしれない。学歴が自分よりも良かった、ということも考えられる…。

 よく「35歳転職限界説」といわれる。実際、年功序列の会社は多く、30代半ばの人材には、スペシャリストかゼネラリストであることが求められる。
 前者の場合は資格などの専門スキル(ただし、バックオフィス系はアジア圏にまるごと移す会社も出てきているので注意)。後者の場合はマネジメント経験や育成経験があることなどが挙がるだろう。
 要するに30代は企業からの要求水準が高いのだ。

 ひるがえって、Parsleyさんは、というと。
 以前にもエントリー記したけれど、転職エージェントにいわせれば、「経歴が荒れすぎている」。
 
 1・「転職歴の多い人はイヤ」 ⇒ 派遣も含めて4回している
 2・「経歴がバラバラな人はイヤ」 ⇒ 出版社勤務→ITベンチャー→広告企画会社→(フリー)
 3・「経歴はいいが年齢の高い人はイヤ」 ⇒ 経歴もよくないし35歳
 4・「経歴が浅い・薄い人はもう少し若くないとイヤ」 ⇒ 社会に出たのが26歳と遅い

 いや、笑っちゃうほど全部当てはまるなー。
 しかも、いちばん長くやっているのがWebディレクター(運営管理)で、事務・広報・編集・営業・企画・Web制作と
きて、極めつけがイベント進行・MCだ。

 そう。
 
 「アイドルのMCもやられていたんですか」
 この言葉が第一声に出たときに、既に負けフラグだったのですね。

 まぁ、過ぎたことは仕方ない。
 履歴書を書かなきゃなので、今回はこれで。

30代独身男性が生活保護を貰うのは難しい

 【これまでのあらすじ】

 先年末に10年来連れ添った同居人と別居。ここ数ヶ月家賃分(87000円)も稼げていなかったParsleyさんは、残った生活費も1月半ばには使い果たし、いよいよ困窮。貯金・資産もなく、病院にも行けず、家族も家人も頼れず、進退窮まった彼は、川崎市中原区役所に向かったのだった…。

 【生活保護のおさらい】

 生活保護法によって規定されている、生活に困っている「世帯」の生活を保障し、その自立を助長していることにより、一日も早く自分の力っで生活できるように手助けをする制度。国の定めた基準額(最低生活費)と、世帯収入にくらべて、収入が最低生活費以下の場合に不足額を支給される。
 例えば30代男性一人暮らしの場合は下記の額になる。

 基準生活費 40270円(食費)+43430円(光熱水費等)=83700円
 住宅費    53700円以内
 合計     137400円以内

 このほか、臨時生活費として、被服費、家具什器費、移送費が認められる。また、医療費は原則として福祉事務所から支払われるので、無料になる。
 収入があった場合、定められた基礎控除に必要経費(交通費・税金・社会保険料など)を引いた分が収入として認定される。
 例えば、60000円の収入があって、経費が5000円だった場合は、下記のようになる。

 60000円(収入)-17900円(控除額)-5000円(経費)=37100円(収入認定額)

 137400-37100=100300円(生活保護支給額)

 【実際に相談をしてみて】

 「現状の収入では暮らしていけませんので生活保護の申請をしたいです」
 というと、相談室に案内され、担当課のひとが、聞き取り調査がはじまる。
 そこで支給の障害になったのは郵便局の終身保険。これは解約しないと駄目とのこと。不動産・車・預貯金などは、資産とみなされ、処分することを求められる。
 その日は同意書(4通)・収入無収入申告書、資産申告書・生活保護開始申請書・履歴書・生活目標計画など10通の書類を持って帰宅した。
 その足で終身保険を解約すると、還付金が約320000円あった。
 後日、印鑑・部屋の契約書・健康保険証・生命保険解約書類・診察券・ここ三ヶ月の銀行記帳を用意して再度区役所に。
 すると、「とりあえず、32万あるから生活できるでしょ」と一言。
 そして、通帳記帳の収入に関して、「これは何? これは?」と質問される…。
 結果的に「直ちに生活保護の必要は認められない」とのことで、書類も受け取って貰えず。「記録は残しておくから、また何かあった際に相談に来て下さい」と言われ帰された。

 【いや、ほんとうに困窮しているんですが…】

 確かに、還付金が返ってくるけれど、家賃滞納三か月分を払ったら、5万円強しか残らないし。そこから光熱費や通信費を払ったらほぼ消える。
 そして、最大の問題が、引越し。生活保護で認められる53700円の家賃の部屋に引っ越すにしても、敷金・礼金・運送費は支給されない。どうにもこうにも動けないじゃん!
 でも、収入がある以上、「より見入りのいい仕事を探して働け」といわれるわけ。言われなくても探しているよ!それでも見つからないから来てるんじゃん!!(これはまた別の話なので、改めてエントリーにしたい)
 
 
 【生活保護の風当たりは強いけれど…】

 BLOGOS「生活保護者を減らす方法は?」というディスカッションがあったけれど、「働ける者は、震災被災者の仮設住宅みたいな施設に入居させ強制労働を」とか「生活保障の審査を厳しくすることが必要」とか、しまいには「対象者には共同で就農してもらい、最低限自分達の食べる分はできるだけ作る」といった珍論まで出る始末で、集合愚だなぁと思わざるをえない。
 せめて、ここで議論をするならば、『生活保護vsワーキングプア』(PHP新書)くらい踏まえておいて貰いたいな。
 真面目な話、137400円という金額でやりくりをするのは相当に大変だし(しかも借金の返済に使うことは認められていない)、さりとて働くと受給が減るとなると、にっちもさっちもいかない制度と額である。そして、何かのための貯蓄も出来ない。社会復帰を目指すにせよ、制度に浸かるにせよ、どちらにしても厳しい道だ。
 その上で、Parsleyが経験したように、少しでも就労が出来そうな場合、受給資格を得ようとしても窓口で追い返される可能性が非常に高い。それこそホームレスにならないと難しいのでは、と推測する。
 
 さらに、コンビニやファーストフード店などのアルバイトにはアジア系留学生が増え、経理などのバックオフィスはインドやマレーシアに置くようになり、Webのコーディングやプログラミングを中国などに発注している企業が多くなっている状況は今後加速していくだろうし、20代~30代の世代が職を失う場面に遭遇する確率はかなり高い。若年労働者の失業は当たり前の時代の到来は、もうすぐそこだ。
 そんな時に、生活保護という「最後の綱」にすがらないといけないひとは確実に増える。
 労働意欲とか個人の問題でどうなるものでもない社会が、既に到来しつつあるということに、早く多くのひとが気づいて欲しいし、雇用も含めた制度設計をした上で、社会保障の見直しをする必要があると思うけれど、政治にそれを期待するのは難しそうという八方塞がりな状況。そうなると、今度は「自殺」というファクターともリンクしてくる。

 Parsley個人の話になると、「そもそも、なぜ生活保護を真剣に考慮しなければならないほどに追い込まれたのか」というところも、相当ツッコミどころ満載なのだけれど、それはまた別の話ということで。

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消費増税亡国論

 この頃、私Parsleyと同じ世代の個人事業主の方々から、消費税の増税に関する不安の声を聞く機会が増えた。彼らは、アクセサリーや小物、カフェなどを販売・運営しているのだけど、一様に「税金が上がったからといって簡単に商品の値段を上げられないですよね…」とおっしゃっている。客単価が数百円から数千円という商売をしている方々にとっては、数パーセントの増税でも懸念せざるをえない気持ちはよく分かる。
 
 そんな中、通常国会がはじまった。新聞各紙は「消費税国会」と名付けているみたいだけど、横並びで基本的には増税に賛成らしい。唯一増税批判をしていた産経新聞の田村秀男・編集委員に財務省OBが「おたくはひどいな」と述べたという話が週刊ポストにも掲載されている(参照)。
 確かにTPPではあれほど大騒ぎしていたメディア人たちが、この件では静かになっているのは不気味といえば不気味に感じる。常識的に考えて、TPPで亡国になるよりも、消費増税で亡国する可能性の方が高いように思えるのだけど。
 まず、前提として、消費税は所得が少ないほど不利な逆累進的税制だということ。そして、所得がある人は消費を抑え貯蓄にまわすマインドが働くので、景気にもマイナスに働く。
 1997年に橋本龍太郎内閣で3%から5%に上げた際は、同年度の税収は4兆円上がったものの、その後デフレが発生して翌年以降の税収は下がっている。
 当時、アジアでの通貨危機などが起きているが、現在は欧州での債務危機が進行中で、世界的に経済が好転する要素がない中で、内需を冷え込ませる増税を実行するのは「どうなの?」という素朴な疑問に、正面から答えている政治家はいないのか、声が小さいのかどちらかだ。
 今、政府・民主党が進めている「税と社会保障の一体改革」では、消費増税と財政健全化、この二点以外の青写真は見えてこない。私のような素人でも、「あー財務官僚の描いた絵のまんまだぁ」と分かる。
 橋本内閣当時は、所得税・法人税の減税が行われた。今回はそういったリカバー案さえも聞こえてこない。長期に渡るデフレ経済が続く中で、「財政再建」というお題目だけで増税をするって、ふつうにありえないでしょ。

 そういえば、菅前首相時の2009年11月に勝間和代女史が国家戦略室がデフレ脱却のプレゼンテーションを行っていた。(参照
 その直後から現在までの月例経済報告は、一貫して「穏やかなデフレ状態にある」のままなのだけど、結局のところ景気対策はずっと放置されたままだったということになる。
 勝間女史やインフレターゲット支持派の経済学者の皆様は、ここで今一度声を大にしてもらいたいなぁ、と思うのだけど、ここでは置いておく。

 スジ論を述べるならば、政府・民主党は2009年の衆議院選挙のマニフェストで示した予算の組み替えや「埋蔵金」による財源はどこまで実現できていないのか示すべきだし地方分権の進捗もどこまで進んでいないのか示すべきだろう(本来は野党がもっと突っ込むべきでもある)。
 とにかく、景気対策もなく、行政改革も地方分権も進まず、ひたすら膨らんだ国債額というお題目「だけ」で増税をするのは、亡国の第一歩としか思えないのだけど。

 私の考えが間違っているのなら、えらいひとにはとりあえず突っ込みを入れてもらいたいな。

 ついでに、『消費増税亡国論』という本が出版されない理由も、教えて貰いたいです。

「誰が何を言ったか」が加速化している

 一時、ネットで誰もが自由に発言や意見を出せるようになって、「誰が何をいったか」ではなく、「何を誰がいったか」ということが重視されるようになる、という見方が、テキストサイトが勃興してきた頃からブログ黎明期(だいたい2000年から2005年くらい)に広がった。私、Parsleyもそれを信じていた頃がありました。(遠い目)

 もし、仮に「何を誰がいったか」という世界になっているとしたら。例えばはてな匿名ダイアリーなどは有益なエントリーにははてなポイントのやりとりがあっていいはずだし、発言小町には「Grow!」を実装しているべきだ。どちらも表向きは匿名でも、データ上では誰が書いたか分かるのだから。というかどのブログサービスも早く「Grow!」をスタンダードで実装してくださいお願いします。
 話がずれたが、とにかく、匿名でもインセンティブが保証できるようなアーキテクチャは構築できるはずなのに、実際はそういう動きはない。

 一方で、情報の流通量が比べ物にならないくらい大きくなっている上に、大手メディアでも情報のクオリティに疑義が出されたりして、「一体を何を信じればいいのか」という状態になっているひとが増えている。
 こうした中では、「○○がツイートしているから」とか「○○が紹介しているから」といった、属人的な要素で情報のフィルタリングをかけるのがお手軽ですよねー、と思わざるをえないし実際そうなりつつある。「誰が何を言ったか」への回帰と加速。

 例えば私個人は、『Chikirinの日記』様とか『金融日記』様とかは訳知り顔だけど書いていることが信用ならなかったり当たり前のことを指摘しているようでいい加減なことを書いているエントリーが多いので読まない、という判断をしているけれど、「単著あるし」といった理由とか、『BLOGOSアワード』に選ばれたから、といったことを判断材料にして彼らを信頼しているひとも多いのだろう。「みんなが読んでいる」という安心感もある。

 有料メールマガジンが増えている理由も、そのような「○○が発信する情報ならお金を払っていい」というひとが増えていることが挙げられる。
 こういった中では、「実績」や「肩書き」が威力を発揮する世界になっていって、はっきり言えば先行者利益がむちゃくちゃ大きいですよね、と。

 何の実績もない木っ端ブロガーが這い上がるのには、なかなか厳しい世の中になっているなぁ、と思うけれど、そういうルールの中で戦っていかなければならないのだ。

社会批評としての『輪るピングドラム』

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 『輪るピングドラム』は、『少女革命ウテナ』以来の幾原邦彦監督作品だったので『ウテナ』大好きっ子のParsleyとしては注目せざるをえなかったのだけど、期待にたがわぬ、いやそれ以上の名作になった。最終回は10回見直したけど、10回泣きました。
 作品としては、血のつながりをもたない家族のありかたを描いたということで、シェアハウス等の存在感が増している現在とリンクする部分があるし、「子供は親を選ぶことが出来ない」ということを「運命」と割り切っていいのか、という是非についても、考えさせられるアニメだった。

 個人的には、おそらく2010年代に入ってから掛け値なしに最重要な作品と思えるのだが、「生存戦略」のインパクトが先行しすぎているのと、幾原ワールドの解釈合戦になっていて、この作品が2011年に生まれた意味が等閑にされている気がする。なので、このエントリーでは、社会批評として『ピンドラ』がどのように機能するか記しておきたい。

 ■「1995年」と「2011年」を直接接続した『ピンドラ』

 『ピンドラ』では、高倉冠葉・晶馬兄弟と、「運命日記」の所持者である荻野目苹果、そして冠葉の真の双子の兄妹である夏芽真砂子の4人が、「ピングフォース」が起こした「世界を浄化する日」、地下鉄テロ事件当日である1995年3月20日に生まれている。
 いうまでもないことだが、この日にはオウム真理教の地下鉄サリン事件が起きている。
 オウム関連のことについて語ることは今でもナイーブだ。現に2006年の「ことのは」騒動のように、過去に関わりがあったことが判明するだけでネット上で大騒ぎになる。そこを幾原監督がどのようにキャンセルしたのかは後述するとして、『ピンドラ』の世界観では2000年代の事象を敢えて無視して作り上げたような形跡がある。
 例えば高倉家は築40年くらいになろうとするボロ屋だし、ラーメン屋や銭湯といった荻窪付近の描写は、懐かしさを感じさせる風景になっている。
 一方で、地下鉄の車内に出てくる広告はデジタルサイネージ風に表現されているし、登場人物たちが持っている携帯電話は皆スマートフォン。
 繰り返し登場人物達を翻弄する「1995年3月20日」という日。それが2011年になっても変わらずに影響を与えている。つまり16年の間、そこに何の変化もなかった。これは現実世界もまた一緒なのではないだろうか?
 よく、バブル崩壊後の90年代のことを「失われた10年」というが、真の失われた10年は2000年代なのではないだろうか。
 だから、幾原監督は、登場人物の回想という手法を取ることにより、2000年代をすっとばして、90年代と2011年を直接アクセスすることにしたのではないか、と考える。彼にとって、2000年代は「とるに足らない」時間だったのかもしれない。政治や社会、カルチャー、発表された作品群…。それらを全てキャンセルしてなかったことにしてしまう魔法が、『ピンドラ』にはあるような気がしてならない。だからこそ、多くの評論家はこの作品を、敢えて見なかったことにしているように思える。

 ■「革命」から「生存戦略」へ

 『ウテナ』では、「世界を革命する力」を与えるという「薔薇の花嫁」=姫宮アンシーを巡って、天上ウテナら「デュエリスト」が決闘することで物語が進んでいった。ここでいう「革命」とは実際に社会を変える類のものではなく、内面や心象心理が変わること、もっといえば「大人になる」ことを幾原監督を描いていた。そして、内面の変化の後には、見える世界も「革命」後になっているということを明示していた。

 さて、『ピンドラ』で、「革命」に近い意味を持つのが「生存戦略」だ。
 難病により余命僅かと診断されている高倉兄弟の妹・陽毬を助けるため、兄弟はプリンセス・オブ・クリスタルの指示に従い「ピングドラム」を探すようになる。…ここの説明ははじめるとキリがないので割愛。

 注目したいのは、90年代の『ウテナ』では「世界を変える」ことが主人公たちの目的だったのが、2011年の『ピンドラ』では「生き残る」こと自体が目的になっていることだ。
 つまり、90年代は「革命」する余地が社会にもあった。それから16年経過した今の社会には、「革命」に耐えられるだけの余裕はなく、また実行しようとする人間の力も衰えている。出来ることは、何があっても生き延びること…。
 言うまでもなく、年金の給付年齢は上がり、社会保障費の増大や財政破綻を避けるために消費税など税金は上がらざるをえない。終身雇用制は過去のものとなり、誰でも失業する可能性はある。一度ラインから落ちると這い上がるのは容易ではない。そんな中で生きていき、なおかつ可能なら「家族」を得る。それが、今の日本人全てに求められている「生存戦略」なのではないだろうか。

 ■オウム真理教と「ピングフォース」の差異

 前述した通り『ピンドラ』は地下鉄サリン事件をモチーフとしている。ただ、実際のオウム真理教と、「ピングフォース」とは事件を起こした動機が全く違う。
 オウム真理教はハルマゲドン思想と教祖麻原彰晃の自意識とがないまぜになり、数々の事件を起こした末に瓦解していった。地下鉄でサリンを撒くのは、強制捜査があるとの情報を受けての攪乱が目的だったことが分かっている。
 一方で、「ピングフォース」は「世界を破壊する計画」を実行する為の組織で、宗教団体というより政治結社と捉えるべきだろう。その大儀は、高倉三兄妹の父親・剣山の次のような発言が示している。

 「この瞬間にも、大勢の子供たちが透明にされている。それを放置しているこの世界を、許しておいていいはずがない。だからこそ、我々は来るべき聖なる日に、世界を浄化しなければならない」
(第20話「選んでくれてありがとう」より)

 オウム真理教が起こした数々の事件は、教団の利己的な犯罪だったというコンセンサスが出来ているように思う。だが、どうしてこの教団が生まれてカルト化していったのか。その時代的背景に関しての研究はまだ手付かずのままだ。オウムから宗教的要素を省いて、大儀を与えられた「ピングフォース」は、逆説的にそれを証明している。

 ■「こどもブロイラー」と子供虐待・少子化問題

 『ピンドラ』のストーリーの中で、とりわけ禍々しいのが「こどもブロイラー」の存在だ。世界から捨てられた子供が集められ、シュレッダーにより粉々にされて透明な存在にされてしまう。
 もちろんこのような施設は実在しない。だが、現在の日本の状況は内なる「こどもブロイラー」が存在しているのではないだろうか。

 この作品の登場人物達はみんな過度に親や家族のプレッシャーに苛まれている。
 苹果が亡くなった姉の桃果になろうとして「プロジェクトM」を遂行するのは両親が離婚して家庭が崩壊したためだし、彼女が結ばれようとしていた多蕗はピアノの才能がないとして母親に捨てられ「こどもブロイラー」に送られている。多蕗と結婚する時籠ゆりは、彫刻家の父から精神的・肉体的な虐待を受けていた。夏芽真砂子も過剰な「父性」の持ち主である祖父と、家を捨てて「ピングフォース」入りした父との相克の間で育っている。

 現実社会において、児童虐待相談件数は厚生労働省で統計開始の1990年に1101件、2010年には55152件と年々増えている。虐待が近年急増したと捉えるのか、実際の虐待数は変わらないという論争があるので数字をそのまま捉えるのには是非があるが、経済状況や労働環境の変化、家族の多様化などにより、子育てにおいてアクシデントが発生しやすくなっていることは見逃せない。
 そして、少子化が進んでいることは周知の通り。15歳以下の子供の数は30年連続で減少している。これは、逆にいうと「子供が望まれていない社会」に、無意識のうちにしてしまっているということだ。

 こう考えていくと、「こどもブロイラー」は、想像の産物と断じるにはあまりにも重い存在だ。私達は知らず知らずのうちに、生きる可能性があったかもしれない生命を、透明な存在にし続けてきたのかもしれない。

 ■「きっと何者にもなれないお前達」から、「運命の人」へ

 「生存戦略」では、高倉兄弟に対して「きっと何者にもなれないお前達に告げる」という口上からはじまる。だが、最終的には、「ピングフォース」を引き継いだ「企鵝の会」が再び世界を破壊するために地下鉄で起こそうとするテロを、『ピングドラム』を見つけ分け合うことで、「運命の乗り換え」が可能になり、兄弟は存在こそ消えてしまうが世界を救うことになった。
 互いのことを知らない間柄では、それぞれの存在は「何者でもない」。しかし、それが知己になることで「運命」に変化が生じるかもしれない。
 『ピンドラ』では「罪も、罰も、分け合うんだ」という印象的な言葉が最初に登場する。「シェア」がキーワードになりつつある現在だが、「モノ」だけでなく、互いの「こころ」も共有することが出来るようになれば。例えば苦悩から開放されることもあるかもしれない。
 「運命」は不変のものではなく「乗り換え」が可能なんだというのは、幾原監督のこれ以上ないポジティブなメッセージだと思う。私も誰かにとっての「運命の人」でありたい。そう考えるひとが増えることによって、社会はよりよいものになるのではないだろうか。

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もう全ての裁判を生中継しちゃいなyo!

 「フリージャーナリストにも法廷の記者席を!」 江川紹子さんが「小沢公判」裁判長を提訴(ニコニコニュース)

 江川紹子女史ほどのひとなら、誰もが「ジャーナリスト」と認めるかもしれないけれど、例えば私Parsleyのような木っ端ブロガーまで「記者枠」で入れるというように枠が広がることを裁判所側はよしとしないだろうし、「司法クラブと話しあって解決してください」と問題を投げる方向に行くんじゃないかしら。よく分からないけれど。

 しかし、今回驚いたのが、司法クラブ内で行われた江川女史の記者会見の模様をニコニコ動画が生放送をしようとしたら拒否されたということだ。ニコニコニュースの亀松太郎氏のツイートによると、「裁判所の建物での中継が認められていないから」ということらしい。(参照
 これってどういう法的根拠になるのか、浅学なのでよく分からないのだけど、現状だととにかく生中継はダメみたい。

 で、私が思ったのは、どうせなら今回の件を司法クラブ主催会見だけとはいわず、全ての裁判・審理をネット(でなくてもいいけれど)生中継できる契機にできないかということ。
 21世紀にもなって、裁判中の様子を法廷画家の絵によってテレビで知るというのは前近代的だし、有名人の裁判で傍聴席の抽選をゲットするために長い列を並ぶというのも滑稽だ。少なくとも、傍聴券に外れたひとは、審理の様子を知りたかったわけで、それって「知る権利」の阻害なんじゃない?
 今なら、法務省なり裁判所なりが、事業仕分けの時のようにネット配信事業者を公募して、全裁判の審理を生中継公開することも出来るのではないか。そうすれば、別に現場にいなくてもPCやスマートフォンがあれば閲覧可能だ。
 もちろん、例えば証言人のプライバシーを守る、といった配慮は必要だろうから、そこにはモザイクつけて音声変えて、といった配慮が必要な場面も出てくる。他にも多々問題は出てくるはず。
 そうはいっても、現状「なぜ生中継が出来ないのか」が、裁判長の裁量に任されていて、その根拠はよく分からない、というのは明らかに改善していくべきなんじゃない?

 …と思っていたら、既にライターの松沢直樹氏が私の考えに近いことをツイートなさっていて、江川女史もそれに答えていた。

  1. Naoki Matsuzawa 松沢直樹
    naoki_ma フリーランスの記者にも、報道関係者の席を利用させてほしいというのは、同意。その前に、裁判は公開が原則で行われるんだから、傍聴席に入りきれない場合、別室で法廷内の映像を見られるようにするとか(放送できれば一番ベスト)するべきだと思うんだけどな。

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  1. Shoko Egawa
    amneris84 @naoki_ma 今は、性犯罪の被害者など被告人に顔を合わせたくない証人をビデオリンク方式で別の場所で証言してもらえるようなシステムがあるので、逆に多くの関心を集める事件の法廷の状況を、例えば法務省の会議室や最高裁の法廷で中継傍聴させることも可能なはず。

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 まずは、多くの国民にとって、裁判所が「閉ざされた場所」だということを知ってもらうこと。現在の裁判所の情報公開の姿勢は時代的に古いということを中のひと達に理解させること。そして、裁判を「生で見たい」というニーズがあり、その実現への機運を高める、ということが必要なんだろう。
 それに一石を投じる、という意味でも、今回の江川女史の裁判の行方に注目していきたいと思う。

 それにしても、裁判所など司法関係と警察関係は、最後まで記者クラブが牛耳りそうな感じだなー。
 やれやれ…。

『SQ』的社会はほんとうに訪れるのか

SQ “かかわり”の知能指数
鈴木 謙介
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 あけましておめでとうございます。2012年も拙ブログをどうぞよしなに。

 チャーリーこと鈴木謙介氏の『SQ “かかわり”の知能指数』は、ずいぶん読むのに時間がかかった。そして、もやもやした読後感が残った。新年初のエントリーは、そのもやもやについて、つらつらと記してみたい。

 SQ(Social Quotient)という耳慣れない言葉は、IQやEQに替わる指数で、「身近な他者への手助けによって、人がどれくらい幸せになるかを表す指数」とのことだ。他者への貢献や、家族・友人などよりも広いかかわりを指向し、「モノ」より「心」を重視し、現在よりも未来志向。そのような人が「幸福な人」だと、著者は述べる。
 その背景として、高度成長期の「黄金時代」の「いい学校に入って、いい会社に入り、マイホームを建てる」といった価値観や、「お金」で「豊かな生き方」を積み重ねる消費社会が崩れていっている、ということが挙げられている。ここまでは、私も同感。
 また、著者は2020年の未来像として、アパレルのリユースの進行や、より多くの「他人」にも開かれた、部屋の中心に電源がある「オフィスのようなリビング」を中心とした住居、職住分離の生活環境からテレワーク的住宅へと生活が変化して、地域とつながるコーディネート力のある人、「グローバルに考え、ローカルに行動する人」とし、「100人に1人の才能」を普通の人にしてしまう現在の空気を刷新する必要がある、としている。ここも、ぜんぜん異論なし。
 おそらく、著者が描く未来像が妥当な帰結だと思うし、誰にとってもハッピーな社会だと思う。

 で、何がもやもやするかといえば、あと10年足らずで日本社会にそのような変化が訪れるのか。そこはかなり疑問だということが一点。
 結局のところ、20代の大多数は「よりよい企業」に入ろうと汲々としているわけだし、正社員から滑り落ちたり、結婚して家庭を築くことが出来ない人に対して、世間の風は冷たい。「うぁ、私の年収、低すぎ!?」というテンプレが示すように、将来を保証する上で「生涯賃金」という価値観は「SQ的社会」を実現するためには厚い壁として立ち塞がっている。「上」の言うことを聞いて馬車馬のように働くことを良しとする風潮は、社会構造が決定的に崩壊でもしない限り変わらないのではないかしら?
 そして、官庁やレガシーカンパニーのシステムが維持できない状況に直面したとするならば(個人的には2020年までにそうなる可能性は低くないと考えている)、ここで語られる中規模都市のコミュニティとか、地域を巻き込んだ少子化対策とかを政治が打ち出す余裕をなくしているように思える。

 もう一点、こういったSQ的マインドへの転回を図るのに、軋轢を一身に受けるのは、ほかならぬSQの高い人なのではないか、ということ。それも現在20~30歳台が両手両足を縛られつつも変えていかなければならないのではないか。その壁を打ち破るのに疲弊したその人を、果たして社会は救ってくれるのだろうか?

 あと。著者はコミュニティの中心に商業施設を配置しているが、個人的にはその中心にあるのは「コンテンツ」と強固に結びついたリアルな「スポット」なのではないか、と考える。なので、地方への回帰、というタームは2000年代で終わり、2010年代は再び「都市」(人口100万~1000万圏)への求心力が働く可能性があり、そういった視点でコミケ文化を捉えていきたいと思っているのだけど、それを深堀りするのはまた別の機会に譲ることにしたい。