『ドラゴンベース(昇龍拠点)』のご案内

 2011年12月30日、長年連れ添っていたパートナーが、我がカワサキハウスを離れました。
 彼女とは別に仲が悪くなったということではなく、単にParsleyが甲斐性なしだったということで、共同生活を継続していくのが困難になったということです。

 そのため、2DKあるカワサキハウスは、ひとりのすみかとしては少々広すぎる部屋となりました。
 また、毎月87000円の家賃を払うのに、零細ライター&Web制作者(絶賛お仕事募集中!)にとっては、なかなかコストの高い場所になりました。

 とはいえ。物件としてはとてもいいところではあるので、個人的にはこの「拠点」を維持したいと考えております。

 そこで、空いた部屋をシェアハウス・シェアルームとして、『ドラゴンベース(昇龍拠点)』と名付け、希望者に開放することにいたしました。

 ★場所

 〒211-0006
 神奈川県川崎市中原区丸子通1-413-2 サンライズ新丸子203


大きな地図で見る

 東急東横線・目黒線新丸子駅より徒歩7分、南武線武蔵小杉駅までも15分。
 近くに丸子橋があり、多摩川の河川敷がすぐそば。
 最寄のコンビニまで徒歩2分です。

 ★間取り

 2DK(ダイニングキッチン+6畳+4.5畳&バスルーム・トイレ)
 基本的に4.5畳の部屋をお使い頂くことになります。
 が、6畳の部屋にある本棚や各収納スペース、キッチン・バスルーム・トイレもご自由にお使い頂けるようにしたいと考えております。

 ★会員費用

 15000円/月

 ※こちら、ご相談に応じさせて頂きます。

 ★募集条件

 私Parsleyことふじいりょうがtwitterでフォローしている方、facebookで私と「友達」の方、mixiで「友だち」の方に限らせて頂きます。
 ご希望の方は、twtterの@parsleymoodまでリプライ頂くか、facebookmixiで「ドラゴンベース希望」と明記の上、友達申請をして下さいませ。

 ★募集人数

 最大6名。
 『ドラゴンベース』の使用状況については、Googleカレンダーで共有できるようにしたいと考えております。

 ★お問い合わせなど

 parsleymood@gmail.com

 
 以上、よろしくお願いいたします。

 2011年12月31日
 Parsleyこと、ふじいりょう

「紙」に囚われた7名の作家と版元7社

 ちょっと周回遅れではありますが、スキャン代行業者に対して著作権者が提訴したというニュースについて。

 東野圭吾さんら作家7名がスキャン代行業者2社を提訴――その意図(ITmadia eBook USER)

 ※Parsley個人としては、ただ単にスキャンして『電子書籍化』することを『自炊』とは呼べない、という松永英明氏の主張(参照)を是とするが、このエントリーでは便宜上「自炊代行」と呼ぶことにする。

 結論から先に述べれば、ユーザーの側からすると、作家7名の主張は著作権の濫用であって、逆に所有権の侵害にあたる可能性があると思う。
 提訴された自炊代行するスキャンボックススキャン×BANKともに、サービス利用者に対して、「データを私的利用の範囲内でのみ使用する・インターネット上で公開しない・誰でも閲覧できる状態にしない・複製しない」といった著作権に関する制限に同意させるチェックボタンを用意している。
 つまり、仮にParsleyが東野圭吾氏の『秘密』をスキャンボックスを利用して自炊代行してもらったデータを、インターネット上でダウンロードできる状態にしたとするならば。Parsleyはスキャンボックスの規約を守らず、東野氏の著作権を侵害しているとして訴訟マターになるだろう。それに対してスキャンボックスは何らかの法的に抵触するようなことはしていない、という判断になるんじゃないかな?
 で、仮にParsleyが自分のPCにおいてのみ『秘密』を読むことを制限されるとするならば。『秘密』という本を買ったことに対して得た「物を自由に使用・収益・処分する権利」を阻害することになるのではないか。
 ついでに疑問を差し挟むと、個人で裁断機とスキャナーを持って、友達の本を自炊した場合はどうなるのか。これも「自炊代行」として、訴訟マターになっちゃうのかな?

 おもいっきりぶっちゃければ、真の「原告」は9月に質問状を出した出版社7社(参照)で、たぶん東野氏らは表舞台に出る役割を演じているだけだと思うのだけど。
 この会見に、自分が出ているとするならば、「そもそも電子書籍についてどう思うのか、自著の電子書籍化について賛成か、反対か」という質問をしただろうなぁ。

 Parsley的には、電子書籍でなく、紙の本で出版する「意味」を有する作品というのは間違いなく存在するだろうから、「電子書籍はやめてください」という権利が作家にはある、と考える。
 逆の意味において、「電子書籍だから出来る表現」というものもあって、そのデバイスに合った作品を編み出すのも作家の「仕事」だろう、と考える。

 私が辟易するのは、結局のところ電子書籍が紙の移植以上の議論になかなかならずに、電子書籍「ならでは」の作品が登場もしないし議論もされない、ということなのだが、それはそれとして。

 今は、紙の本の市場が、「作家⇒出版社(制作に印刷社なども絡む)⇒取次⇒書店⇒ユーザー」という流通が強固だけど、このモデルは縮小状況にある。今後電子媒体が伸びる可能性はあるし、現に「ケータイ小説」という新たな市場が立ち上がってもいる。
 結局のところ、今回訴訟に踏み切った7名の作家は、今後も「紙」ベースで作品を作っていって、電子化されることによって出来る表現は放棄する、ということなのだろうし、その裏にいる7社も、現在の流通モデルを可能な限り守りたい、という立場なのだろう。
 そして、それは「新しい表現」を実現した電子書籍が出現するまでは、それなりに有効な戦術といえるのではないか。

 ただ。今回提訴された自炊代行業者2社は槍玉に上げられてかわいそう。
 二社とも現在新規の受付を中止しているし、とんだとばっちりだよね。ご愁傷様。

「地震が小さすぎた」

 とあるパネルディスカッションでのパネラーのご発言。室内の一部からは失笑が漏れた。
 私は笑えなかった。それがほんとうのことだと思ったからだ。

 3月11日の東日本大震災は死者・行方不明者があわせて約2万人に達しているし、現在も33万以上の方が避難・転居を余儀なくされている。地震直後に起きた福島第一原発の事故については、敢えて述べる必要もないだろう。
 この国は、大きな犠牲を払った。にも関わらず、この国は、変わることが出来なかった。

 私Parsleyは地震直後にも様々な大臣会見や、政府・東京電力統合対策室共同会見などに出席してきた。
 だが、そこにあるのは「日常」だった。官僚・職員の皆様は会見をつつがなく進行するために資料を配ったり大臣の入り時間を気にしたり、記者の皆様は記事を書くために会見の内容を社内に伝えるのにキーボードを打ち続け、大臣は閣議の内容と管轄の業務について淡々と報告し、質問に対して多くの場合は冷静に、時には気色ばんで答えた。
 大臣が去ると、どこからともなく談笑が聞こえる。そこから数百キロ先で起こっていることが想像できないくらい、「いつも通り」の「日常」がそこにはあった。

 政府・東電の統合会見の初日には、記者クラブの記者からも、フリーランスからも、会見のあり方に対する質問が続出した。それはそれでもちろん議論されるべきことだったと思う。だが、被災地や現地のことを考えると。何かを押して優先されるべきことだったのだろうか?
 その統合会見も16日に「冷温停止状態」になったのに併せて終了となった。聞けば、大手マスコミの依頼という。それぞれ東電、原子力安全保安院の会見は元のように別々で行われるようになる。どちらもフリーの記者でも「マスコミとしての活動をしている証明があれば」参加できる。細野大臣の会見は、登録対象が決まっているので、統合会見に参加していた数多くの人が参加できなくなるだろう。
 このことに関しては、超微力だけど、申入書を提出してみようかと考えているのだけど、それはそれとして。

 ある意味、この天災は、この国の意志決定のシステムを組み替えるチャンスだった。
 だけど、残念なことに政治家の皆様にはその力はなく、また新しいシステムを提言出来るだけの「知恵」が民間にあるわけでもなかった。少なくとも表出はしなかった。東日本大震災復興構想会議は単なる現状認識の共有の場以上のものはなく、IT復興円卓会議でもドラスティックな提案がなされるわけでもなく、ただ時間が過ぎていったような印象を受ける。
 
 識者の中には「3.11」以前と以後で、世界が変わってしまったかのような前提のもの論考をしている方も沢山いらっしゃるけれど、その「ターニングポイント」が大きく扱われる程に、実際に日本社会に与えた影響の「小ささ」がフレームアップされるかのような気がしてならない。

 あーあ。どうしたらこの国変わるのかな?

 その問いに、私Parsleyは一つの可能性を提示することが出来る。
 欧州金融危機が破綻を迎え、影響がアメリカに波及し、中国のバブルが弾け、それが合わさった大波が、日本列島を呑み込もうとする時、だ。

facebookになくて、mixiにあるもの

 今、いろいろな不思議な縁があって、大阪・千日前で12月23日に開催される『Sein』というミニマムなイベントのサポートをしている。やっているのは、主にブログやtwittermixiページの管理など。
 イベントは、デザフェスに出展されているような絵画・アクセサリー・写真などから文学フリマで販売されるような小説集が展示・販売される一方で、アコーディオンの生演奏も行われるという、これまでありそうでなかった空間になりそう。
 中でも、今年一部で盛り上がったヤン・シュヴァンクマイエル監督関連で、彼の映像作品に登場する骨董品などを手がけるマンタム(田村秋彦)氏の手によって『Sein』のためにお作り頂いた『拘束スブニール』の展示が行われる。関西圏のみならず注目して欲しいイベントになってきている、と手前味噌ながら思っております。
 ご興味を示された方は、下記ブログをご覧頂ければ、と。

 『sein』(ザイン)12月23日@大阪夕顔楼

 さて。このイベントのサポートをするようになってから。いろいろ大阪のアート・文芸界隈がどうなっているのか、ネットで分かる限りのことは調べてみた。
 もともと、扇町ミュージアムスクエア(OMS)を中心とした大阪ガスの企業メセナの流れで、「扇町talkin about」が出自の方々が強い、という事前知識はあった。その他にも大阪芸術大や大阪府立大の流れのコミュニティがあったり、特定の作家さんを中心としたコミュニティがあったり、あるスポットを中心とした輪があったりして、面白いなぁと思ったのだけれど。
 そういうことを「外側」から見るのに、facebookではなかなか分からず、twitterも案外積極的にやっていらっしゃらないか、アカウントすら持っていない人やスポットも少なくないということに気付かされた。
 一方で、mixiはアカウントを所有率が高く、特にmixiコミュニティは、未だに有効に機能しているということも分かった。

 facebookの場合、基本的に「既知」の人と「友人」になることが前提とされている。
 で、あるスポットのfacebookページから、そのコミュニティがどうなっているのか、というのは、タイムラインなどを見ても意外と分からなかったりする。各スポットからの「お知らせ」はよく分かるのだけど。他のfacebookページとの連携もほんの少ししか表示されないし、人の流れが見えない。

 そういう意味では、mixiコミュニティというのは、今更ながらよく出来てるなぁと思ったりする。
 例えば、『Sein』が開催される千日前・夕顔楼のコミュニティへは、「扇町talkin about」と関係が深いBar「シングルス」のコミュニティからリンクされていて、源流にOMSがあるのが見てとれる。さらに、夕顔楼からは、『関西アンダーグラウンド』という音楽系のコミュニティにつながっていたりして、さらに大きなコミュニティや人の流れを見ることが出来る。
 ミクコミュは、機能していないところが大半だけど、機能しているところは今でも活発にコメントがついたり新たなイベントが登録されたりしていたりして、それは他の何物にも変え難いものになっている。

 facebookページとmixiのコミュニティを比較すると、参加している人や関連コミュニティなどの表示、トピックやイベントの表示など、情報量でもUIでも、断然に後者の方が優れている。
 つまり、facebookにないソーシャルグラフを、mixiは開設以来積み上げていていて、それと同じレベルでのデータをfacebookが得るには相当の時間がかかるしアーキテクチャ的にも向いていない。

 さて、ここで問題は、mixiが自社の先行利益を生かす方策を編み出すのかどうか、だ。
 mixiページははっきり言ってmixiコミュニティと有機的に繋がることができない時点で、facebookページと同様の機能しか果たしていない。参加メンバーのつぶやきも表示されないから、このトピックで話題が広がることもない。
 つまり、自社の長所を、mixiページに関してはまったく活かされていない。
 でも、逆にいえば、改善の余地は沢山あるということだ。

 facebookにはなくてmixiが提供できるのは、「未知との遭遇」なのではないか。
 日本人に限っては、セレンビティの設計が出来るだけのデータを有しているmixiがどのような巻き返しを見せるのか、興味深く、期待せずに期待して見守りたいと思う。

『ラーメンと愛国』を読んだ。

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)
速水 健朗
講談社
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 gotanda6様からは、「次に出す本のテーマはラーメン」と聞かされていて、「ラーメン? 食べ物にあまり興味なさそうなのにどうしてかしら」と思ってから待つこと3年。ようやく上梓された「ラーメン本」は「ラーメン本」ではなく、ラーメンという事象を軸に展開される現代史概観本だった。
 たまたまこのエントリーを太平洋戦争開戦70周年の12月8日に記しているけれど、そういった節目の日に読むのに相応しい本。ちなみに、DOMMUNEのトークライブにこの日を計ったかのように出演される。(参照

 第一章「ラーメンとアメリカの小麦戦略」と第二章「T型フォードとチキンラーメン」では、太平洋戦争(第二次世界大戦)が総力戦になったことにより、技術より生産量が勝負の帰趨を決めるようになり日本が負けたことに触れ、戦後の食料窮乏と、アメリカの小麦生産の過剰分が日本にやってくることで、パン・麺食が米食を抜いていくというヒストリーを示している。
 そして、戦艦『大和』のような「一点もの至上主義」から「大量生産」という思想のパラダイムシフトが、アメリカより約50年遅れて日本に導入された象徴例として、チキンラーメンを登場させる。安藤百福が作り上げた商品は工業製品であり、大規模オートメーションから生まれた魔法のラーメンだったこと、デミングやドラッガーらや、スーパーマーケットの広がりという流通の変化にはうってつけの商品だったことなどを自在に持ち出して詳らかにしている。
 アメリカのスーパーマーケットからショッピングモールが発展する過程に触れているあたり、本書が『思想地図Β』で著者が監修した「ショッピングモーライゼーション」のアナザーストーリーとして捉えることも出来そうだが、その比較はここでは割愛する。

 第三章から第五章までで、本来は中国発祥だったラーメンが、なぜ日本の国民食になったのか。闇市から店舗を構えるまでになった50年代の第一世代、脱サラとしてフランチャイズの傘下で店舗をもつ70年代の第二世代、インスタントラーメンを食べた第三の世代になる団塊世代に至るまでの間で、「地層のように重ねられた記憶」がラーメン=国民食という共通認識となった、と結論づけている。

 個人的に、一番興味を持っていたのが、ラーメンとナショナリズムの関係。著者は2008年刊行の『自分探しが止まらない』にて、ラーメン屋が作務衣にタオルというスタイルで、人生訓などを店舗に飾るといった、自己啓発的な思想について指摘していたが、本書では、黒地に金の装飾という和風の内装・作務衣風の衣装になったことを「作務衣系」と呼び、手書きの人生訓を「ラーメンポエム」と名づけている。
 そのようになった理由として、90年代のテレビ番組の果たした役割、スター店主に弟子入りするという徒弟制度のエンタメ化が挙げられ、ラーメン作りが職人のものどころか、宗教的な「ラーメン道」にまで高められていく過程が語られる。
 そして、コンセプトに「和」を持ち込んだのが、『博多一風堂』恵比寿店、そして『麺屋武蔵』であるとする。この「和」にした「理由」について、女性客への訴求、ということの言及に留まったのは、ちょっと残念。
 「工業製品」から「ご当地」化、そして「ご当人」化していくというグローバリゼーションとは逆の方向に進んでいる現象を、「ヌーベル・キュイジーヌ」や「スローフード現象」と対置させ、それが「地域主義」、そして「愛国」に繋がり、90年代からの右傾化の流れをラーメンポエムに見出す…というのは、興味深くもあるけれど、若干強引なようにも感じられた。
 ちなみに個人的には、現在の日本の「右傾化」の正体は、ナショナリズムに仮託して存在意義を見出すという、ある種の「自分可愛さ」「自分大好き」という深層心理から来ているに過ぎないと考えているのだが、とりあえず置く。

 本書でも白眉なのは、『ラーメン二郎』(参照)の人気を解剖した箇所。「ジロリアン」を一種の信仰になぞらえ、「美味しくないのに、通わずにはいられない」理由としてその量の過剰さ(普通と頼んでも通常のラーメン屋の二倍の量は入っている)ことが「二郎たらしめている」と喝破。そして『二郎』がネットユーザーと相性が良く、全店舗を制覇するしてブログにアップするという「ゲーム的消費」について指摘するあたりは、著者の真骨頂と言っていいだろう。

 この本の面白いところは、ラーメンが戦前・戦後史、そして現代のカルチャーを示すためのツールとしての役割に徹していることで、一切の「ラーメン愛」が感じられないことだ。巻頭で「ラーメンはいつからこんなに説教くさい食べものになってしまったのか」と問い、最後に世界各国でのラーメンの扱いについて網羅的に触れた後、「ラーメンをめぐる話題は尽きないが、これ以上は紙幅も筆者の根気も尽きつつある」と記すあたり、著者の人となりを知る身としては、微笑を禁じえない。
 著者に対して「お疲れ様でした」という気持ちを込めつつ、「ラーメンについてもっと知りたい」というひとに対する誤配が生まれたら面白いな、と思いつつ、特に戦後史を俯瞰するのには格好の本である、ということは述べておきたいと思う。

 あぁ。この本をきっかけに「ラーメンポエム」を収集・集積するサイトとか登場しないものかしら。

 <参考>
 講談社現代新書のカバーの色のひみつ(『【A面】犬にかぶらせろ!』)
 『ラーメンと愛国』元ネタブックガイド(『【A面】犬にかぶらせろ!』)
 ラーメン、アメリカ、ジャニーズ:速水健朗氏との対談(ミュルダールを超えて第二回)
 【速水健朗氏インタビュー】ラーメン神話解体――丼の中にたゆたう戦後日本史(ソフトバンク ビジネス+IT)

ロスジェネ・パッシング

 2011年12月6日、GLOCOMの第2回FTMラウンドテーブル(Green-Table)「生産性の再定義 ~「もっと、速く、良く」を超えて~」を聴講してみた。ここは70年代~80年代生まれで各企業・学会でご活躍の才英が集まって、「日本のスマート社会を構想する」フォーラムで、この日はブログ『雑種路線でいこう』の楠正憲氏が、東浩紀氏の最新刊『一般意志2.0』を絡めて、企業・社会での生産性を上げるために果たすPC・ネットの役割について議論された。
 最初の楠氏からの話題提供があり、その後でディスカッションがあったのだが、その際にこれから「意志決定」がどのようなプロセスで行われるのか、という話題になり、これが大変興味深くて、いろいろなことを考えさせられた。
 以下、このフォーラムでの議論からはだいぶずれた話をする。ご寛恕頂けますよう。

 楠氏は、(乱暴にまとめると)現在の「意志決定」の過程を組み替えて、社会のあり方を変化させるべき、という立場に立たれていた。これは概ね私も同感なのだが、「誰が」社会を変革し得るのか、という問題と、「いつ」変革し得るのか、という問題を考えていると、ちょっとした悪寒に襲われた。
 3月11日は、日本の意思決定のスキームを劇的に変化させるチャンスだった。だが、様々な事情と何より慣習の強固さに阻まれて実現できなかった。
 社会のあり方を変えるという「意志決定」はこのまま10年ほど見送られ続けて、ロスジェネ世代(ここでは広く団塊ジュニア世代・ポスト団塊ジュニア世代を含めた72年~82年の世代を差す)、つまり私たちの世代が、その「意志決定」を押し付けられるハメになるのではないだろうか?
 もちろん、この「意志決定」のスキームの組み換えは、今現在成すべき課題だ。それが10年遅れるとなると、選択の幅も狭くなる。その中で無理ゲーを強いられる可能性が、ロスジェネ世代なのでは?
 
 ロストジェネレーション世代は、就職氷河期にあえぎ、会社に入社してもかつての年齢とともに収入増するモデルは崩れている。子供どころか結婚もおぼつかない人も少なくない。簡単に言って、社会状況の変化にまともに向き合っている世代になる。

 しかし。最近のメディアを見ると、「ロスジェネ」という言葉自体、あまり聞かなくなった。
 例えばワーキングプアだったり、就職氷河期によって正社員になれず、派遣・アルバイトを転々としなければならない層は、2007年に朝日新聞が特集をした頃にはかなり話題にもなったし、その環境の悲惨さが取りざたされることになった。
 結局のところ2011年の今に至るまで、ロスジェネ問題が政治的な遡上にのぼることは実質的になかった。正社員になれなかった者の多くは正社員になれないままなように、雇用情勢は改善されていない。それどころか私のように正規雇用から滑り落ちる存在もいる(この問題は誰も一切触れていない)。
 一方で、30歳を過ぎて結婚・出産が出来ずにいる層が沢山現れている。ここには少子化政策がいくつか打たれてはいるものの、有効打になっていない。結局のところ、この世代の雇用と将来への不安に対する改善策が打たれていないから、当然といえば当然なのだが、政治はそこからは目を逸らし続けている。

 つまり、2011年になっても、ロスジェネ問題は終わっていない。
 一方で大手メディアや出版社がロスジェネを扱った企画や刊行物を出す機会は激減した。一方で古市憲寿氏のように、「希望はないけど幸福」といった若者論が出たこともあり、問題が深くなる一方のロスジェネ世代自体が棚上げされているような印象を受ける。

 こういった「ロスジェネ・パッシング」の大きな理由として、ロスジェネ世代自体が様々な階層に分断されていること、そしてロスジェネ世代の問題を継続的に取り上げるメディアの不在にあるように思える。

 これは私Parsleyが、「自分のメディア」として有料メルマガを発行しようという決意とも関わってくることなんだけど。(参照
 「ロスジェネ問題」が終わっていないということを示すこと。「ロスジェネ問題」の政策的解決を図ること自体が「意志決定」のスキームを変えることにつながるのではないか、ということ。それを世に訴えることには、今現在必要なことではないか。
 論者も消えて、当事者たちが残された問題に、再度息吹を取り戻すために、何らかのアクションを起こすために。出来ることはやってみる所存です。