電子書籍は紙の本に勝つ必要はない

 『マガジン航』に掲載された原哲哉氏の記事を読んで、これまで漠然と感じていたことが確信に変わった。

 電子書籍はまだ紙の本に勝てない(マガジン航)

 まず前提として。同じ内容のコンテンツが紙と電子書籍というプラットフォームのどちらの方がユーザーにとって希求するか、ということに対しては、現状のままで圧倒的に紙有利だろう。
 流通はリアル書店・ネット双方で充実しているし、情報が集積されるインフラが整っていてユーザーが求めている「本」に出会いやすい。「ページをめくる」という行為は数百年もの間で染み込まれたものだ。アメリカ等では、電子書籍になることでのコストカットが実現しているが、新書・文庫等、低価格のパッケージが用意されている日本では価格的な優位性を捻出するのは難しい。
 そういった先行利益を享受している紙媒体に対して、電子書籍が真っ向から勝負するのは分が悪すぎるのではないか?

 となると。紙とは違った「機能」を、電子書籍がいかに提供できるのか。紙とは違った「体験」を、電子書籍がいかにユーザーに享受させることが出来るのか。
 私Parsleyが、「これまで発売された中で一番優れた電子書籍は何か?」と問われたなら、一にも二にもなくニンテンドーDSから出ている『大人の恋愛小説DS ハーレクインセレクション』を挙げる。
 このソフト、33ものハーレクイン小説をパッケージングしているだけではない。注釈にすぐにアクセスできたり、人物相関図やコラムといった単行本にはないコンテンツを収録しているだけでなく、BGMを選ぶことができる。
 だがこれは本質的ではない。特筆すべきは、WiFiコネクションを利用して、全国の読者の選ぶ作品ランキングや感想を共有する機能があることだ。これによって、「ソーシャルリーディング」と呼べる行為を可能にしている。

 原氏が「ネットワークの長所を使って、電子書籍のマーカーやメモ機能を使い、多くの読者が一冊の本を読み、そのメモを集約することによって、様々な意見や感想、ポイントなどの「共有」ができたら、読書も楽しくなるのではないか」と述べているのには非常に同感するし、電子書籍は原氏が挙げたような機能を実装していることが大前提になると思う。付箋やマーカーのソーシャル化によって、読者みんなの知見が集積され、なおかつコミュニティが誕生するようなコンテンツが理想だろう。
 昨年から「読書会」が来ている、という話は以前に拙ブログでも紹介させて頂いたけれど(参照)、今後「ソーシャルリーディング」は普遍化する可能性がある。ある電子書籍に対して、より情報に付加価値を高めるために関連リンクを張る、ということも出来るだろうし、誰かが関連する内容の電子書籍がリンクを張り、そこからアフィリエイト収入を得る、ということも不可能ではないだろうし、そうやって本と本が「繋がっていく」という行為が、コミュニティから生まれる。
 それまでは、書籍の内容だけに拘っていれば済んだことが、電子書籍に置いては、「知」の導線設計と読者コミュニティの設計が不可欠になると思う。そして現状の電子書籍で等閑にされているのは、一番大事なこういったことだ。

 そうすると、コンテンツもこれまでの紙ベースでは難しかったことを実装していく想像力が、作家(クリエイター)には求められるのではないだろうか。イラストや写真、映像とのコラボや他作品とのリンク、また作品の舞台となる現実空間とのリンクなどを、いかにして生み出していくのか。これまでの「文芸」の枠組みでは収まらない表現が可能になるし、そういったことに挑戦するクリエイターの登場が、ある意味電子書籍のほんとうの「意味」を知らしめることになるように思える。

 ここまで考えてみると、電子書籍は紙の本に勝つ必要はなく、紙の本に載っているコンテンツとはまったく別の表現や機能を持つコンテンツを生み出し、まったく別の「市場」を生んでいく方向に進むべきなのではないか?
 また、現在進められているような標準化ではなく、各々のコンテンツごとに違った規格で違った機能を持つ「アプリ」という形態で良いようにも思える。ただ、iBookstoreやAndroidマーケット等で個々の本が「つながる」導線を誰もがアクセスでき作ることができるようになっていればいいのだ。
 小説にしろ評論にしろエッセイにしろ、それぞれのコンテンツが載ったアプリが、「知」の入り口、PCでいえばブラウザの役割を果たし、ネットの世界と接続し、同じコンテンツに触れているユーザーと接続し、時には作者ともアクセスできるような環境は、理論的には現在の技術で実現可能だ。ただ、そういうコンテンツとプラットフォームの作り手がまだ不在なだけだと、私は思う。

 さらにいえば、ユーザーの本棚もソーシャル化し、それが「書店」として機能させることでそれ自体がコンテンツとなりコミュニティの形成にも繋がるというのが理想形だと考えるが、長くなったのでまた別の機会に考えてみたい。

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文章系同人のミライ

 前回の文学フリマ大交流会で、大塚英志先生と市川真人先生の対談を企画して実現しちゃった私ことParsleyなんだけど、ここで大塚先生がお話されたことに関して、私自身思うことがあったのに何も書いていないことを思い出したので一応記しておこう。

 ※ちなみに、この対談はニコニコ動画のプレミアム会員になれば視聴出来ます。

 ここでアジェンダとして挙げられたことに、「文学の優位性」と、「文章系同人の地方展開」がある。
 まず前者は、今の若い子にとっては数ある表現のうちの一つ、という位置づけになっている。つまり、音楽やマンガ、イラスト、ダンスなどのパフォーマンスといった表現は、全てフラットになっている。まして、ライトノベルが純文学より下に位置づけられているわけでもない。
 結局のところ、「文学の優位性」を敢えて挙げるのは、「市場での敗北」を経験した文学界隈のひとたちの、新しいインセンティブ設計の試み、もしくはこころのよりどころとして機能している、と考えるべきだろう。
 インターネット世代以降は、文芸誌に原稿を送らなくても、ホームページを自分で作れば発表・掲載できる(しかも確実に)。そして、ケータイ世代になると、魔法のiらんどなどのようなプラットフォームができて、よりカジュアルに表現することが可能になっている。
 そこで登場した「小説」はこれまでの表現法とは若干違うかもしれないけれど、結局のところ日本語での文章表現という意味においては「文学」たるものだと個人的には考える。

 で、ここで一つ、「市場としての文章系」というアジェンダが新たに浮かび上がってくる。つまり、文章を「売る/買う」ということ、「発表する/読む」ということがもはやイコールでないという当たり前の事実とどう向き合うか。
 つまり、今の若い子は、あえて芥川・直木賞を目指したり、紙に印刷して同人誌即売会で頒布したりする「楽しさ」を知らずに、ネット上に文章を発表し続けることが出来る。
 この「楽しさ」をインストールするための具体的な方策を、私個人は簡単に思いつかないのだけど、そのコミュニティが楽しそうに映るかどうかが、そのカギを握っているような気がする。逆にいえば、今は商業誌にしろ、文章系同人にしろ、「クラスタ」どまりで「コミュニティ」は形成されていないように思える。

 さて。大塚先生のおっしゃっていた「文学フリマ」の地方展開について。
 実際にクリルタイミニコミフリマ@名古屋というイベントを運営した経験でいえば、文章系同人の市場規模で、政令指定都市レベルの場所でイベントを開催するのは採算的にかなり厳しい。広義の「読書をするひと」に対してアプローチするのが難しいのは当然として、「自分で表現活動をしているひと」に対してリーチするのも相当に大変だ。
 つまるところ、地方都市においては、「文学クラスタ」という存在自体が地下に潜行しているか、存在していない。よくよく考えてみれば、阿部和重先生の『シンセミア』が山形で特別多く売れている、といった話は聞かない。
 そういう状況で「市場」を掘る活動をするには、それなりの資本とそれなりの計画をもって、中長期的に行うべきことなのだけれど、それを試みている団体もしくは個人は現状では見当たらない。

 ここまで書いてみて思うのは、「文章系同人」という市場が、東京(文学フリマ)でも500ブース超/来場約4000人という規模にすぎない、ということだ。
 これがニッチに終わるのか、さらに拡がるのかのカギは、いかに「文章系」というところにこだわるのをやめてより自由になれるか、というところにかかっているように思える。
 つまり、よりマンガや音楽、イラスト、デザイン、ゲーム等といったものと、つながりを持つことが出来るか。そして、それを包括する形でコミュニティができるか、というところになるだろう。コミケがあれだけの市場規模を獲得しているのは、それに成功しているからだし、メディアミックスに慣れた消費者側にも、ある一つの表現形態のみで満足させるだけのコンテンツの強度を持たすことは、相当緻密な設計が要求されて誰にでも出来ることではない。
 さらにいうと、M3デザインフェスタコミティアに出典しているクリエイターからは文学フリマ・文章系同人のクラスタが魅力的に映っていない、という現状には、真剣に危機感を持つべきだと個人的には考える。

 逆にいえば、私Parsleyがやりたいことって、つまるところそういうことになるかなー。
 まぁ、無理せずやれることをやってみよう、と思います。

 

「ジャーナリズム」から「情報流通工学」へ

 最近、よく考えるのが旧来的な意味における「ジャーナリズム」の役割は、既に終了しているのではないのか、という疑問について。
 「ジャーナリスト」の定義を「新聞や雑誌などあらゆるメディアに記事や素材を提供する人」として、「ジャーナリズム」を、「ジャーナリストあるいは報道機関の行動規範」と定義したとする。
 まず、インターネットの登場により、かつてに比べて「メディア」が際限なく広がっていることは改めて述べることではないだろう。つまり、「メディアに記事・素材を提供する」という行為が、一般化している。CGM時代が到来して既に5年以上も経過して、個人で取材をして個人でメディアを立ち上げ他者や社会に影響を及ぼす、ということも理屈の上では可能になっている。

 そういった時代に、「ジャーナリズム」は果たして必要なのだろうか?
 少し前に掲載されたビデオジャーナリストの神保哲生氏の記事を読んで、改めて考えさせられた。

 これはジャーナリズムの生き残りをかけた戦いだ ――普通の産業として通用するメディアへ脱皮せよ

 神保氏がおっしゃる「権力チェックや公共的なアジェンダセッティング(想定や対立点の設定)といったジャーナリズムの基本的な機能が、社会から失われた状態ができてしまう」という懸念。自身も「既存メディアが不十分ながら担ってきた」と述べているように、権力チェックはかなりザルでその目は時代を追うごとに粗くなっているし、世論形成という観点では、その恣意性が目立ってもいないだろうか?
 そして、新聞・雑誌・テレビなどの既存メディアがなくなることで、本当に権力チェックやアジェンダセッティング能力が失われてしまうのか。ここも精査してみると、かつてよりも公官庁の情報公開が進み、メディア人でなくても専門的な情報へのアクセスはし易くなっているし、twitterなどの登場により、多くのひとの(かなりディフォルメされた形ではあるけれど)意見が可視化されることにより、世論が空気ではなく実態化していく。今はその過渡期だが、それまで曖昧だった市民の声というものが「サイレント」でなくなる方向へ進むのは止められないだろう。
 そういった世界においては、アジェンダセッティングは自律的に作用するはずだし、権力チェックの役割も各市民が、意識せずとも担っていくことになるのではないだろうか。

 では、「ジャーナリズム」の代わりに、メディアで新たな規範になるものは何だろう?
 ここでParsleyは、敢えて「情報流通工学」と名付けてみたいのだけど、要するに、伝える側(個人でもいいし、組織でもいい)が、伝えたい層に向けて、どのようなルートで情報を流すのが適切か、正しく設計する能力なのではないか、と思うのだ。

 今、日本のインターネット上のニュースを含めた情報は、Yahooなどのポータルサイトや、mixiなどのSNSへと集まるようなアーキテクチャになっている。
 つまり、「より多くの人に注意を喚起する」という目的ならば、ポータルサイトかSNSで配信されなければ、意味がない。
 もしバリューのあるニュースや情報ならば、直接ポータルサイトやSNSに行くルートがないにしても、twitterなどのソーシャルメディアで燎原に火が広がるように多くのユーザーに知れ渡り、それをどこかのメディアが拾い上げ、やはりポータル・SNSで話題になるだろう。
 今、これだけネットにニュースメディアがあるのは、情報を希求するユーザーがそれだけ多い、ということの裏返しでもある。そして、そういったミドルメディアの上に、ポータル/SNSがあるという構造になっていて、そこからのアクセスにより各ミドルメディアは「食べて」いる、というのが現状になる。
 確かに、最近勃興したネットニュースメディアは、既存メディアに比べて情報の信頼性や取材力、情報の取捨選択などに課題を抱えていることは間違いない。だが、これまではボツになるか、見向きもされなかった情報が、「ニュース」として拾い上げられているという事実も見過ごすべきではない。

 ちょっとここでParsley個人の話をすると、ブログで自分の意見をエントリーにして、内容によってはBLOGOSに配信され、モノによってはLivedoorニュースのトピックスとして扱われる場合もある。
 その一方で、ライターとしては複数のネットメディアに対してストレートニュース・コラムを記名・無記名関わらず書かせて頂いている。
 おそらく、過去の記者/ライターとしては考えられないようなワーキングスタイルで「情報発信」をしていることになるのではないか、と考えるのはちょっと自惚れが過ぎるような気がするけれど、そんな中でも、「ニュース」を発信する意味とその影響については、個人レベルでも考え抜かないといけないし、出来ればその情報が、より良い方向に社会が転がるように「設計」するのが望ましい、と思っている。

 長々と書いたが、たとえこれまでの「ジャーナリズム」が陳腐化して廃れたとしても、そこには新しい生態系が生まれて、正しく機能するんじゃないか、といささか楽観的に考えている次第。というか、「ジャーナリスト」を名乗っている皆様は、時代の変化に順応すべきなんじゃないかなぁ、と思ったりするのだが、若輩者の浅はかな考えなのだろうか?
 

『復興』で語るべき「住民参加」と「Gov2.0」

 松本龍復興大臣が舌禍で10日で辞任を余儀なくされた。この事象自体に政治的な意味があるとParsleyは思わない。あるとすれば、あまりにもメディアとその先の多くの視聴者、そして発言を拡散するソーシャルメディアの力について甘くみている政治家は、今でも沢山存在していて、そういう方が要職に就くたびに同じ光景がしばらくは続くのではないか、ということぐらいだ。
 あと、東日本大震災が発生後、私などの目には「政治」の不在と、「メディア」の情報の選別の恣意性といったことが強く感じさせる四ヶ月だったといえるだろう。

 そんな中、東日本大震災復興構想会議が6月25日に答申した提言。マスメディアや有識者の意見では復興税導入にかんする文言が入っていることを批判したり、特区構想など目に見える部分の是非に拘泥ものばかり目立つが、実は結構重要というか、コロンブスの卵的なことが盛り込まれていることを指摘しておくべきだろう。

 全文はこちら(PDF注意)⇒復興への提言

 ざっと読んでみて、例えば孫正義氏の「東日本ソーラーベルト構想」のような大きな話は出てこない。出てくるのは、「被災地の地域・コミュニティをどう復興させるのか」ということ。その前提として、地域のニーズを優先しつつ、「コンパクトなまちづくり」をしていくということ。
 私なりにこれを翻訳すれば、「国でグランドデザインは描かない。地域のニーズをボトムアップで抽出する」と、いうことだろう。もっと言えば、「国は地域のやりたいことを邪魔せずに金さえ落とせばいいんだよ!」と言っているに等しい内容になっている。
 地域・市町村といった自治体を中心に街の復興案を策定し、都道府県が精査しつつ助言・提言をし、それを国が追認する。そんなフローを目指している。これは、これまで「お上」の意向待ちだった政治・行政へ住民の参加することによって主体的に関わるという意味では、震災前から進めていた「新しい公共」を一気に浸透・実践させる契機にもなるだろう。
 「新しい公共」は当初の主旨から離れてNPOの縄張り争いのような印象を外野に与えがちだが、本来は行政の意志決定のプロセスの中に地域住民の意見を盛り込む場を設けて反映させる、ということが主眼。復興におけるプロセスの中でも、各自治体の機能回復の次のフェイズで、まちづくりをどのように設計していくのか、有識者(大学研究者・建築家など)の助言を仰ぎながら「住民が」選択していく、というロールモデルを作っていくことが理想になるのではないか。そういう復興プランづくり、あえていえば「国抜きの復興計画」を各自治体で作る、という主義が、答申全体の基調になっている。

 また、「情報通信技術の活用」として、webサイトによる復興の進捗の「見える化」や、行政・医療・教育等のデータの「デジタル化」「クラウド化」の推進と明記されていることも注目すべきだ。
 ここは、ティム・オライリーのいう「政府がプラットフォームになるべき」という「Gov2.0」、「オープンガバメント」といった理念とリニアで繋がってくる。すなわち、情報公開を徹底させ、その上でその情報を誰でも活用でき、新たなサービスを構築できるようにデータベースとなること。私はこれからの復興に向けて、各産業を参入・発展させる上でこの方針は必要不可欠だと思うので、政府や関係各位はもっと宣伝すべきだし、ITの有用性というものをもっと周知させるべく活動すべきだと思う。

 だが、現実はまだまだITに関してはかなりデジタルディバイドがあるようだ。
 実際、ボランティア情報のAPI化などを進めてきた助けあいジャパンボランティア情報ステーション(VIS)が母体となって設立されたボランティアインフォは助成金をなかなか得られず、手弁当で活動を行っているために厳しい局面に立たされている。

 手弁当ボランティアの限界とボランティアインフォ支援のお願い(ガ島通信)

 要するに、デジタルネイティブな世代は、データをデジタル化するための意味というものが分かるのだけど、決済する40、50代以上のクラスのひとに理解してハンコを貰うのに苦労しているという状況のようだ。
 ここは、今回の提言にも入っているように、オープンガバメントの進展ということをもっと強調しておくべきだし、可能ならば国レベルでも、オープンガバメントの動きを進める省庁が出てくることが望ましい。

 最後に。私個人の考えを述べると、今回の震災までの数年間で露呈した間接民主主義の限界を補完する形で、「新しい公共」=行政への住民参加と、オープンガバメントは威力を発揮すると思う。もう政治家を選挙で選ぶだけが、国民の政治参加だという時代は終わった。自ら住んでいる地域のコミュニティにコミットして、より住みやすい環境に変えていくために、みんなが協力していく。これが21世紀型の行政であり、政治であるという方向にしていくべきだ。
 ただ、これは権益の分散が伴い、紆余曲折が予想される。そのためには、「国会議員や地方議員だけには任せていられないから自分達でやる」といった主体性を持った住民の登場が不可欠。
 そう考えると、今の状況って、そんなに悪くないというか、誰もが頭を使わないと生きていけない状況なので、「新しい公共」本来の意味とオープンガバメントが一気に浸透するチャンスなんじゃないか、と思ったり思わなかったりしている。

 
 

1000エントリーめ&さいきんのお仕事

 拙ブログ『Parsleyの「添え物は添え物らしく」』は2004年10月にオープンして以来、低空飛行ながらこれまで続けて参りましたが、これが1000エントリーめです。
 何事も飽きっぽくて長続きしたためしのないParsleyにしてみれば、驚異的な程続けてこれたのは、ユーザーの皆様に読んで頂いている、という実感があったからです。改めて御礼を。いつもほんとうにありがとうございました。そしてこれからもよしなにお願いいたします。

 ★ニコニコニュースでお仕事していました。

 2011年の2月から6月まで、ニコニコニュースでいくつか記事を書かせて頂きました。

 「ふじいりょう」の記事一覧

 個人的に気に入っているのは、下記の記事かなー。

 中止されたサブカルアート展の作家ら 「機会を奪うな」と展覧会開催
 カワイイ大使も期待! 「初音ミク」がゴスロリファッションとコラボ
 岩手県出身ツイッターアイドル・福田萌にインタビュー 「日本の復活信じてます」
 「茨城も被災地」 元日本代表・鹿島アントラーズの小笠原選手ら訴え

 ★日刊サイゾーでお仕事しました。

 「出会い系からオナカップまで」合理化が加速する”セックスメディア”は今後どうなる!?

 ★ガジェット通信でお仕事しました。

 “カワイイ大使”単行本発売! 青木美沙子さんにインタビュー
 米原康正&増田セバスチャン 原宿から発信する「僕らの出来るチャリティー」

 前にもtwitterで書いたのだけど、いろいろなメディアでストレートニュース/コラム双方の記事を書かせて頂く、というのは新しいライター像への挑戦だとも思っています。より多くの媒体にコミットすることにより、情報発信することによって、少しずつでも日本のメディア環境に変化をもたらすことが出来ればいいなー、などと、分不相応なことも考えておりますが、今後も精進して参ります。

 ★『奇刊クリルタイ増刊「dorj」Vol.2 All About Sports』刊行しました。

 面白集団「クリルタイ」が放つ「dorj」、今回は「文化系が語るスポーツ」をテーマにマンガ・小説・論考など分厚い内容となっております。
 特に論考・エッセイは近藤正高氏の「幻の名古屋オリンピック」、松永英明氏の「なみだの陸上部」、pal-9999氏の「サッカーにおける夢と現実の狭間で」などなど、かなり充実していて必見です。
 そんな中、私Parsleyも「競馬の物語の喪失と復権」というエッセイとも論考ともつかない一文で末席を汚しております。各論客の皆様の「ついで」にお読み頂けると嬉しいです。

奇刊クリルタイ増刊「dorj」 Vol.2
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ライブメディア戦国時代

Ustreamメディアの作り方 ―トレンドに身を投じたひとびと (PCポケットカルチャー)
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 献本を頂きました。ありがとうございました。

 本書では動画サイト・ネット中継のコミュニティがどのような発展を示してきたのか、中継の実例や機材・ソフトウェアなどにも言及し、これからネット中継、特にUstreamを活用したメディアを作ろうと考えている方にとっては、格好の入門書となっている。

 しかしながら。Ustにしろ、ニコニコ生放送にしろ、もうプレイヤーは相当数いて、閲覧者を集めるためには、様々な努力が必要になってくる。
 少し前なら、「ダダ漏れ」的な内容の放送でも、数百人、ネタによっては1000人以上のユーザーを集めることも不可能ではなかったけれど、現在では、しっかりとした台本のもと作りこまれた番組もよく見かけるようになった。つまるところ、クオリティ勝負になっており、個人でそれなりの質を担保した番組を作ってアテンションを集めるのは難しい状況になっている。

 そうなると、キャラクターで勝負するか、コンテンツで勝負するのかの二つしか選択肢はないのだけど。後者の代表例が今や伝説となったオカダダ氏のクリスマスDJだと思うが、同じようなことを2011年現在にやろうとしてもあそこまで話題にはならないだろう。先程も述べたように、既にプレイヤーが増えて、過当競争になっているからだ。
 そういう中で、必要になってくるのがキュレーション。つまりおすすめの番組を紹介するひと(しかもある程度のオーソリティであるひと)なのだけど、今のところそういうスキームが登場する気配はないし、そもそもUst文化/ニコ生文化を網羅的に観ているひとが存在するのかどうかも怪しい。
 となると、ライブメディアを目的ではなく手段として使えるひと、つまりblogなどのストックメディアとtwitterやfacebookといったフローなメディア、それに加えてライブメディアを有機的に使い分けて、個人もしくは集団をブランディングすることが出来るか、ということをやらなければいけないので、「Ust(ニコ生)やりました!」というだけでは、キャラの確立すら難しい状況と言える。

 要は、何かの目的(マネタイズとかPRとか)が先にあって、その方法論としてライブメディアがあり、ライブメディアを盛り上げるためにはtwitterやfacebookを有効に活用してコミュニティを形成する必要がある。
 というわけで、今から「流行っているし、ライブメディアをやってみようかなぁ」と考えているひとには、漠然と考えているだけではひとを集めることは出来ないよ、と注意を喚起するべきだな、と思った。

『PS』8月号を読んだ。

 表紙は『PS』初の仲里依紗。グラビアもビビットなカラーの服を中心に、キュートで素敵。他誌とは違った表情も見せていて、ファンのひとは注目しても損はないのではと思う。

 今回は個人的には興味がもてないな~といった内容なのだけど、「おしゃれフレンズSNAP」という特集をしてきたことは、仲間うちでファッションのアイテムや情報をシェアする、ソーシャルな流れに沿っている。
 ビビッたのは、57Pにカヒミ・カリィがスナップされていること!

 あとは、河北麻友子&入夏の「おしゃレッスン」が60’Sレトロで可愛い♪ しかし残念ながらこういったアイテムは高いんですよね…。

検証:ニコ生ニュース誤報事件は「誤報」だったの?

 前にもエントリーに書いたので、触れるのを終わりにしようとも思ったのですが。(参照

 ニコ生ニュース誤報事件について(まとめ)-岡田斗司夫公式ブログ

 まず、私Parsleyことふじいりょうと後日談として、今回の一件で、ニコニコニュースNCN編集部とのライターとしての関係は解消されました。
 理由としては、「記事の見出し・内容に問題があったと思いますが、それ以上に重視しているのは、Twitterという公開の場で、岡田さんとやり合ってしまったことです」とのことでした。
 この件について、私からのコメントは公にすることを控えます。聴きたいという奇特な方がいらっしゃったなら、宴席にてでも(笑)。
 
 ただ、見過ごせないのは、ニコニコニュース側で訂正記事を出して、岡田氏も「誤報」と述べていらっしゃること。
 これからの私にとって、「誤報を流したライター」というレッテルが貼られるのは、ちょっと困ります。
 ですので、元になった生放送の該当された箇所のテープおこしと、現在は消えてしまっている訂正前の記事をこちらに収録しておきます。
 少し長いですが、こちらを読まれた方に、今回の件が誤報だったのか、ミスリードだったのか、それとも間違いのない情報流通だったのか、ご判断頂ければと思います。

 くしくも本日は、ニコニコ生放送で、『号外!ニコニコニュース』が放送されます。
 今回の件を触れるかどうか(たぶん触れないでしょうけど)、そこでニコニコニュースという媒体が試されているのではないなぁと個人的には考えております。

 閑話休題。それでは、ご興味のある方は下記を読み比べてみて下さいませ。
 その上で、ご意見ご感想を下さると嬉しいです。

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★『ニコ生岡田斗司夫ゼミ「原子力とオタク」』より 該当部分を抜粋

 原子力とオタク。あの~、一応おしながきに書いていた第一話から核爆発があったアニメ。なんでこの話をするのか、そのうち話が流れていくかなと思うんだけど…。
 えーと。有名な話なんだけども、『機動戦士ガンダム』の第一話って核爆発シーンあるよね。つまりザクがガンダムにズバっとぶった切られるシーンがあるんけれど、あのズバっとぶった切られる時に核爆発が起こって、コロニーに外壁に穴が開いて、アムロは「いかん、これをしていたらコロニーに穴が開いちゃう」ということでやる、と。
 で、あれを出せたのは富野さんのやっぱ大冒険だよね。あの時代、そういう核を出すということは事はすごく嫌がられたんだよな。
 だから、マ・クベとの戦いで「水素爆弾」という言い方をしているんだけど、それを「核爆弾」ではなくて「水素爆弾」と言ったらスポンサーもテレビ局も分からずに通しちゃうじゃないかな、というのが富野由悠季一世一代の賭けだったんだよな。そしたらその賭けに勝ってさ、水素爆弾が発射されるシーンが日本のアニメであったんだよ。あれありえないシーンでさ、テレビで、それも中京テレビだよ!?名古屋放送の『機動戦士ガンダム』という子ども向きのアニメで水爆の発射シーンがあったんだけども、「水爆」でなくて「水素爆弾」とペロッといったからさ、誰も気づかなくてそのままオンエアされちゃったんだ。
 で、これでいける、と思って、のちに『超時空要塞マクロス』というアニメがあるんだけど、「核爆弾」とかって書いたんだよ。『マクロス』の爆発ってね、大型の爆発は全部核爆発なんだよ。核分裂、いわゆる原爆なんだけども。でも、最初「原爆」って書いていたらまず台本段階でNGが出て。そりゃそうなんだけど、それで「融合弾」て書いたんだ。「融合弾」って書いてももう一回ね、一度核爆弾って書いちゃったからチェックする側も厳しくなっちゃって、いかん、と思って「融合弾」もダメになった。それっで河森正治さん一生懸命考えて…、「反応弾」!そうそうよく知ってるね!!今出ましたねコメントで。「反応弾」という話を書いて「反応弾」なら大丈夫だと。核反応の「反応弾」。
 『マクロス』でゼントラーディ軍たちの宇宙戦争に地球に巻き込まれるという設定も、地球ではもう使用が終わっているはずの核爆弾というものを相手が使用しだしたので宇宙人だと分かったというのが第一話でセリフがあったんだけれど、核がらみでの話はズバっと切られちゃっている。
 『エヴァ』のN2機雷もあれも実際は核兵器だよね。これもやっぱり核兵器と言ったらダメだから、テレビシリーズでは少なくともなかなかオンエアできないんだけども。庵野くんが爆弾でああいうふうに描いてキノコ雲をあんなふうにモクモク上がったらそれはもう間違いなく核兵器だ。核でもどうにもならない恐怖の無敵の存在の使徒が襲ってくるのをどういうふうにするのか…。
 で、面白いのは、富野さんがガンダムやザクにしてもそうだ、モビルスーツの中に核エンジンを組み込んだんだな。核反応炉というのかな。原子炉のことを英語でアトミックパイルという。パイルというは炉のことね。そういうふうなものを小さくしたのがマイクロパイル。これは古典的なSFでよく出てくるので今回覚えておこうか。
 そういうマイクロパイルというのをガンダムやザクには腰に入っていた。これが富野さん世代のロボットのリアリティ。つまり、動力は自分の中に入れておいてそれでロボットを動かす。ガンダムとかザクみたいな巨大兵器を宇宙で運用するんだったら、もともとあれは宇宙空間の戦闘に作られたものだから、そんなに汚染問題を考えないでいいから、だから原子炉を積んでもOKだ、といのが開発した人間の考え方、発想みたいなものなんだな。 
 で、それを地上戦に持ってきちゃう。コロニーの中でモビルスーツを使うのか、と連邦軍も驚いたしアムロも驚いたのは何でかというと、核動力で動いているような危険なものを使うのは宇宙空間で無限の開放形だから運用できるのであって、それをまさかコロニーに持ってくるのか、それをまさか地上に下ろしてくるとは、「ジオンって本当に戦争をやる気なんだ」とあの時はっきり分かるシーンだった。だからモビルスーツ同士の戦闘をジオンは実は想定してなかったから。それによって切りあいが起きたら核爆発が起こる。分かっていたんだけど。ま、日本人と同じだよね。「メルトダウンなんて起こりえません」と同じで「モビルスーツ同士の戦闘なんか起こり得ない」と考えていたからこそ、あんなすごいことが起こっちゃった。

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★訂正前のニコニコニュース記事

■オタキング岡田斗司夫、核燃料の扱い「ジオン軍と日本人は同じ」

 株式会社オタキング代表取締役・岡田斗司夫氏は2011年5月29日、ニコニコ生放送「ニコ生岡田斗司夫ゼミ」の第一夜「原子力とオタク」で、アニメ『機動戦士ガンダム』のジオン軍と原子力発電を推進してきた日本について、「モビルスーツ同士の地上戦を想定していなかったジオン軍と、メルトダウンを想定していなかった日本は同じようなもの」と語った。

 『機動戦士ガンダム』は1979年から放送されたサンライズ制作のロボットアニメ。のちにシリーズ化され、映画化やプラモデルなどで「ガンダムブーム」を巻き起こした。

岡田氏は『機動戦士ガンダム』第1話でのガンダムとザクの戦闘について「あの時代、(TVに)核を出すのはすごく嫌がられた。だからマ・クベとの戦いの場面で”水素爆弾”という言葉を使えばTV局やスポンサーが意味がわからず通しちゃうのではと考えたのは、富野由悠季(『ガンダム』総監督)一世一代の賭けだった。そして、その賭けに勝っちゃったから水爆を発射するシーンが日本のアニメで放映された」と語った。

 また、ガンダムをはじめとするモビルスーツ(作中に登場する戦闘用ロボットの総称)が動力としてマイクロパイル(小型原子炉)を積んでいることに触れ、「宇宙空間で運用するのであれば汚染問題を考える必要がなく原子炉を積んでもOKだろう、という(モビルスーツを)開発した人間の考え方があった」と述べた。だからこそ、

 

「(宇宙)コロニーでモビルスーツ同士が戦う場面で連邦軍やアムロが驚いたのは、核動力で動くような危険なものを、まさか地上に下ろしててくるのかと(いう衝撃があったから)」

 と分析した。さらにその戦闘によってコロニーの外壁に穴が開く場面を、

 

「(ジオン軍は)日本人がメルトダウンなど起きないと考えていたのと同じで、(ガンダムと戦うまで)モビルスーツ同士の戦いなんて起こりえないと考えていた。だからあんなにすごいことが起こっちゃった」

 と、震災による原発でのメルトダウンを想定していなかった日本人と、モビルスーツ同士の地上戦を想定していなかったジオン軍とを重ね合わせた。

 (了)