『「電波」の処方箋は読み手のリテラシー』あとがき

 そんなわけで、『メディア・イノベーションの衝撃』に寄稿させて頂いた感想なんかを、つらつらと記そうと思う。もしかして、コラムの分量よりも長くなっちゃうかも(笑)。

 まず。事実としてこのブログは泡沫で影響力も極小で、なおかつこのブログをやっているという以外に私の素性は何も担保されていないわけですよ。だから、この場で展開されている600近いエントリーを除けば、ほんとのほんとに何にもない。DJ研が開催されていた2006年初夏から2007年1月にかけて行われたディスカッション時はアダルト系出版社にいたし今は自宅警備員なわけだし。他の皆様と違って、木っ端な存在。
 唯一の担保であるこのブログも、どっかからの圧力うんぬん以前に、ヤプログのサーバーがクラッシュしたり私自身のミスなんかであっさりと全部消えてしまうぐらい脆弱なものだ。
 そういった存在でも、ほんのちょっとの行動力と積み重ねた言説があれば拾われる可能性がある、ということに意味を感じつつ、同時に「添え物は添え物らしく」という名前が印刷物に残る、ということを、素直に嬉しく思っています。

 私にとっての「ちょっとの行動力」のうちには、闖入者と思われることを承知でDJ研に参加させて頂いたことも含まれる。まぁ、未だにそういう感覚が抜けないところはあるけれど(笑)。
 このブログで、私はしばしばメディアに批判的な立ち位置からエントリーを書いていたし、その当事者と顔を合わせることは控え目に言ってもチャレンジングだったけれど、実際にどういう人なのか見てみたいという好奇心のほうが先に立ったわけだ。
 自分では、DJ研に参加する前と後で、当事者に対する舌鋒が鈍っているつもりはないのだけど。こればっかりは読んで頂いている方々に判断して貰うしかない。

 DJ研は特設ページの「発言者一覧」をご覧になれば分かるように、現役・元新聞記者から、研究者、フリージャーナリスト、市民メディア運営関係者、ブロガーまで、さまざまな立場のひとが入り乱れている。「ネット時代のメディアのありかた」を研究する場に集ったのはいいけれど、結局は同床異夢なところが浮き彫りになった、とも言えそう。その点は、橋場義之先生の序文でも、「結論は何か、と問われれば、確たるものを提示できていないといわざるを得ない」とある通りだ。
 では、この本にどういう意味があるのか、といえば、この連続討論のログ、という以上でも以下でもないのだと思う。「ここ、オフレコじゃなくていいの?」と思った箇所まで、忠実に公開しているし。確かに書籍という形態を取ってはいるけれど、何気にこの本のフレームの部分はブログっぽい文脈で構成されている。多少身びいきな感想かもしれませんが。
 要するに。この本は何らかの変化のはじまりなりきっかけなりになって、はじめて意味のあるものになるんじゃないかな、と個人的には考えています。

 会議に参加していての感想は‥といえば、新聞業界のひと(OBも含めて)はほんとうに新聞のことが好きなんだなぁ、と(笑)。
 一番印象に残っているのは、オーマイニュースを取り上げた第三部のディスカッションの前に、「(オマニの)市民記者は、既存の新聞と比較すると投書欄に近いと思うのですが、投書欄もジャーナリズムといえるのですか」という質問を投げかけたのだけど、関係者の方々が皆「そんなこと考えもしなかった」といったお顔をなさっていたことかしら。
 それを見て、失礼だけど既存メディア側の存在意義を規定するための「ジャーナリズム論」にあまり意味を見出せなくなった。それよりも、読み手の側が「ジャーナリズム」だと感じる記事がいかに伝播していくか、そのスキームが今後作りだせるのかどうか、というほうがずっと重要なんじゃないか、と感じた。
 あとは、仕方がなかったとはいえ、運営を非公開にしていたのは、後々禍根をもたらすかもなぁとは思っていた(コラムで「アカウンタビリティー」に触れたのもそのため)。秋より再開される研究会では公開も検討しているそうなので、徐々にでも垣根が下がる方向になるだろうし、より専門的な展開も考えられるのではないかと期待したい。
 とにかく、新聞業界を守りたい、とお考えの方は頑張って守って頂ければいいと思うし、検索エンジンの問題を追及したいひとは、とことん追及すればいい。問題意識のあるひとが、その問題に取り組むことによって、社会は回っていくんだよ。‥なんて当たり前過ぎるけれど思いました。


 この本のメイン・ターゲットはオールドメディア関係者と研究者なので(その割にはAmazonでもそこそこ売れているけど)、私のコラムもそれをかなり意識して書いたつもり。
 なぜ、私がなぜこの期に及んで「リテラシー」を連呼したかというと、情報を拾い上げてアグリゲーションすることに従事している(はず)のメディア関係者が一番受け手としてのリテラシーを欠いているように思えてならないから、ということに尽きる。
 末端の人間の場合、リテラシーがあろうがなかろうが、発信力が弱ければ別に放っておいても本人が恥をかくだけで済む。が、記者のひとが媒体を使って増幅した「情報」にはそれだけで価値が生まれているわけで。オールドメディアだけでなく、ミドルメディアを見ても、かなりやばいんじゃないかなぁ、と。あと、好むと好まざるをかかわらずミドル化したブロガーのひととか。
 ‥しかし、まぁ、正直に言えば、そういった方々がそのあたりに気付く可能性は限りなく低いように思えるなー。「受け手」=「読者」って勝手に脳内変換されそうだし、「全ての文章は書き手の主観」というのも「ふんふん、ブログってそうだから信用ならないよね」と読まれそう。いやいや、まさにあなたのことですって(笑)。
 もっとも、この問題に関しては、単に世代間格差なんじゃないかという疑惑が、自分の中でどんどん大きくなっていっていることを白状しなければならないだろう。
 
 それから。ずっとネットを題材とした書籍(の版元)が、ネットの情報に対してのアクセシビリティに無関心なことを批判していた(このエントリーとか)のに、自分が(コラム5ページとはいえ)関わった本でまったく触らないのもアレなので、リンク集と参考文献集のエントリーを上げました。

 『メディア・イノベーションの衝撃』関連リンク(上)
 『メディア・イノベーションの衝撃』関連リンク(下)
 『メディア・イノベーションの衝撃』参考文献

 正直、自己満足と言われたとすれば返す言葉がないのだけど、研究者や学生の方で一人でも役に立つのならば、望外の喜びです。

 まったく触れないのもアレなので、「ことのは騒動」に関して。
 私の見解は、以前書いたものから変化していないことを改めて明言したい(コメント欄のリンク先を参照)。この騒動を「炎上」とするならば、それは当事者のアカウンタビリティの問題というコラムで書いた見解も、その延長に過ぎない。
 私はこのブログで、この問題をあくまでネタとして(真面目に)取り上げていたし、DJ研でも「炎上」のケースの一つというスタンスで接している。そのように取り上げたことに対して是非はあるだろうが、「インターネットの言論とその影響」について論じられる場であったということは重ねて確認しておきたい。
 また、ことのは騒動と、オーマイニュースでの起こったあれやこれやは、研究会が開かれていたのと同時進行していて、状況の変化が激しかったので、事実に基づいているはいるとはいえ、論考がすぐに陳腐化してしまっている面は否定できないかもしれない。
 ちなみに、BigBang様がこちらで引用なさっている部分は、去年の秋に行ったディスカッション時のものだと記憶している。そのあたり、繰り返しになるけれど、この本が「ログ」であるゆえんです。
 実は、佐々木俊尚氏から『フラット革命』の献本を頂いて既に読み終えたのだけど、こちらではこの問題に関してかなりの分量を費やしていて、仔細に検証なさっている。あくまで個人的な感想だけど、『メディア・イノベーションの衝撃』で触れている部分は、その導入部と呼ぶにしても貧弱な印象を受けた。
 ま、「ログ」が「流れた」ということのみで判断するのも、「ログ」から何かを展開するのも好き好きではあるけれど、願わくばネットにおける言論が、不毛なもので終わりませんように。

 そんなこんなで。私がディスクローズ出来るのはこんなところです。

 

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