「国を過つ」ことは回避できた?

 この一ヶ月あまり、政治の季節に乗ってきた拙blogも、このエントリーをもって選挙関連のネタは一応区切りをつけるつもり。
 まぁ、この後もいろいろ事が起こりそうで、「And that’s all?」という感じなので、ワクワクテカテカしながらウォッチし続けることには変わりがないのだが。

 今回、「絡みづらい」blogになることを覚悟で、時事と伴走する気になった理由。
 parsleyをオフでもよ~く知っている人間に、「なんか義務感でやっているよね」と言われて、はっとさせられた。あーやっぱり他人の目からもそう見えましたか、という感じだった。
 そう。確かに「自分が書かないといけない」と思い込みで、どのエントリーもアップしてきたように思える。
 ではそういうふうに思い込めたのは、どうしてか。


 とどのつまり、finalvent様が8月3日の日記で、以下のように記されたことに、リアリティを感じて戦慄してしまったことが一番の理由になるだろう。

 公明が依然キャスティング・ボートという不運。
 共産が少し馬鹿な戦略を変えるので、票を拾うかもしれない。
 というあたりが、どぶ板ではけっこうインパクトを保つ。
 お芋の庶民様はというと、基本的にはまだまだメディアに乗せられているので、反自民・反郵政とかに流れる可能性は高いと思う。ここで衆愚というのは容易いがこれが日本の現実。
 それといわゆる地方が一気に反動化しそうなマグマでもある。
 民主+公明といった悪夢のような政権が出来たときどうするか。
 端的に言って、米国の逆鱗となるだろうが、そのあたりは韓国がしゃらりとやってのけたのでそれほど想定外ではない、というか、米国は軟化せざるを得ないだろう。というあたり、また命運は米国か。といってもそれが選挙前には効果なし。
 ここで日本国は大きく過つという印象も私はもっているが、それをきっかけに小さな民族国家への志向をしてもよいのかもしれない。しかし、現実には世界の潮流に呑み込まれるだろうな。

 この「大きく過つ」という言が、無力と分かっていながらも突き動かすようにしてエントリーを重ねることになったのだと思う。一種の強迫観念を植え付けたとさえ言えるかもしれない。前のエントリーとも関連するが、言葉は使う人によって如何様にも力を発揮し得るということだ。
 
 結局、上記のシナリオはハズシ。finalvent様をして「すごい国だなと自国を誇りに思う」と言わしめる結果に終わった。「過つ」手前で踏み止まり、危険な賭けに勝った。
 だが、果たしてほんとうにそうなのだろうか?
 皆さんは、どう感じているのだろう?
 個人的には、まだ十全の自信を持つまでには至っていない。
 まぁ、そうは言っても、漠然とした不安感を抱えたままでもいいや、とも思っているけれど。仮に過ったとしても、日本人であることを止めにするわけにもいかないしね。

 ≪『選挙選挙!』エントリー一覧≫

 ・「serious?」
 ・「発言の耐え難い軽さ」
 ・「1993-2005」
 ・「こんな時だから、温故知新」
 ・「雌伏ノススメ」
 ・「『ブログ選挙』のダークサイド」
 ・「点景・戯言」
 ・「フィールドワーク・リポート」
 ・「暗い未来を、笑って迎えるために」
 ・「誰が為の勝利」
 ・「次はインテリゲンチアの再編で!」
 ・「もしも参議院がなかったなら」
 ・「民主党議員がオンナゴコロを掴むために」
 ・「コトバ。Death & Reverse」
 

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