コトバ。Death & Reverse

 21日に特別国会が召集され、第89代首相に小泉純一郎氏が、無事選出された。記者会見で、彼が「この内閣最後の予算編成」と述べたくだりには、愛しさとせつなさと心強さを感じた。
 彼は自身の企図する方向性へ、この国の舵を切ることに成功した。自民党総裁の任期後に首相を続けようが、ご希望通りに辞めることが出来ようが、もうそれを揺るがすことは難しい。

 それにしても、今回の選挙は最後まで「言葉」の力が、決定的に局面を左右したなぁ、と思う。
 8月8日の小泉総理の演説の迫力の影響は、選挙当日までまるまる一ヶ月も保ち得た。彼のみならず、自民党の候補者たちも、「郵政民営化」という言霊が、街頭で上げる声の勢いに繋がったことは疑い得ないだろう。
 大敗を受けての民主党の代表選出の際には、前原誠司氏は「戦う」というキーワードに純化することによって、演説に一本の幹を通したことが、菅直人氏を破る原動力になった。

 こういった言葉への共鳴が人を動かすという当たり前のことに、新鮮な驚きを覚えると同時に、言葉を生業にしている人ほど、そのことに鈍感だったということに、どーよと感じざるを得ない。私parsleyは、本籍地は文芸にあると勝手に思っているので、今回の選挙に関して、彼らからの言及さえが少なかったのが、特に残念である。目立つのは東スポで連載していた 室井佑月女史の「あー女ってこういう見方するよね」な記事くらいだったように思える。村上龍あたり喜々としてコメントしてくれてもよさそうなものなのに(笑)。
 というか、文筆業者は政治に言及するのを慎重に避けていたと考える方が正鵠かもしれない。ここで「黙ってしまった」ということが、心の中で共感している「ポピュリズム」を体現することになっているという事実よりも、筆禍の方を恐れた。そういうことなのかしら?


 それにしても、『文藝春秋』10月号の特集はひどかった。作家という人種は本質的にオナニストだといえばそれまでだが、車谷長吉氏の「政治家になりたいと思ったこともないし、政治に何も期待したい」といった言を取り上げる意味が何処にあったのかとも思うし、江上剛氏が銀行経営に仮託して、「カリスマ指導者は必要ない」と論じ、「私たち日本人は基本的には白黒二元論的な一神教より多様な価値観を平等に認める多神教の民族なのだから」と結んでいるのには眩暈を禁じえなかった。アホらしい。
 これらの月刊誌に並んでいる活字の一字一句が、屍骸のように感じるのは私だけだろうか。

 かといって、サブカルチャーの側は、小世界を暖め眠るのに忙しくて、リアルな政治に対峙している暇はない。逆に言えば、対峙せずとも小世界を暖め続けることが出来るのがリアルなのだとも取れる。そりゃ、選挙に関心持たずとも済むよな。ただ、そのニッチな平和はこのまま永遠に続くのか、という疑問は残るけれど。

 となると、頼みはオンラインということにはなるのだが。
 今回の選挙に関する言説を見る限り、つまんねーものしか生み出せなかったな、というのは事実だろう。お前はどうなんだよ、と言われれば、「はい、私もです」と答えざるを得ないところだし。中には褒めてくれる方もいらっしゃって、それはそれで嬉しいけれど、総体として力を持ちえなかったということはある。これは、blog全体でも同じこと当てはまるのではないだろうか?
 なぜつまんねーかといえば、ほとんどが日々発信されるニュースにぶら下がるようにして、エントリーを料理して出す以上でも以下でもなく、インディペンデントな「知」を発揮したエントリーが数えるほどしかなかった、ということが挙げられる。そして、その数えるほどしかないエントリーが、充分に影響を持ち得なかった。
 となれば、先程挙げた文芸誌の惨状と大して変わらぬ状況だったと結論するしかなくなる。ググればググるだけ、言葉の屍骸を目の当たりにするというわけだ。

 だが、一対多のコミュニケーションの手段としての「言葉」が、発する者の力量次第でどこまでも力を持つことは証明されている。
 このことを受けて、どのように言説を再生することができるのか。既存の「識者」の側にそれを望むのは無理めっぽいし、新しいロジックを認めるシステムをも構築しなければならないだろうから、郵政民営化などとは比較にならないほど厳しい道ということになる。
 もしかして、小泉総理は、古い論壇気質までをもぶっ壊したのかもしれない。やれやれ…。

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